2013年12月26日
第24回 文化芸術の社会的機能
1年間、月2回のペースで書いてきたこのコラムは、今回で最終回です。静岡県内の文化芸術関係の話題を取り上げながら、様々な角度から少しだけ掘り下げて考えてきました。静岡にもアーティストやクリエイターを始め、文化活動に専念する人や団体があり、場があることを紹介すると同時に、それらを楽しむことを実践してきました。
今回のトピックは、コラム全体のまとめの意味合いを込めて、文化芸術の社会的機能についてです。文化芸術の社会的機能を考えるとき、静岡市に暮らすぼくの実感にもっとも近いのは、一種の「ガス抜き」。社会的不満を解消する手段として、文化芸術が置かれている場面によく出会います。
総務省統計局の労働力調査(2013年10月)によれば、就業者数6366万人のうち1964万人が非正規雇用者です。非正規雇用とは変な言い方ですが、勤め先での呼称が正規職員・従業員以外の人のこと。アルバイトやパート、派遣社員等です。つまり就業者のうち約3割は非正規雇用者ということです。非正規雇用者は、給料が限られる上、雇用の状況が不安定ですから将来の見通しを立てにくく、社会保障も十分に受けられない場合が多い。こうなると当然、不満が溜まることになる。
この不満をどこで解消するか。一昔前ならば、家族や友達といった人間関係を通して不満を解消していたのかもしません。ところが現在、それに代わる共同体があるかというと、希薄になっている。仮に実家暮らしをしているとしても、親世代と子世代で社会認識がずいぶん違う。非正規雇用者数を見るだけでも増大傾向にあり、親世代の若い頃とは労働環境が変わっている。そうであれば話が通じない。
偶発的に友達ができる機会も減っていると思います。例えば、住宅の構造を考えてみるとわかりやすい。昔の家ならば、お隣の生活空間を窓ごしに見ることも普通だったと思います。半透明な生活空間の区切りによって、近所との交流が生まれるし、そこから「醤油の貸し借り」的関係ができてくる。ここに相互扶助が自ずと生まれるわけですが、現在の住宅環境ではこうした交流の余地がない。アパートやマンションではお隣の顔さえ知らないし、住宅街を歩いても生活空間が垣間見えて自然と会話が生まれるような状況はまずない。
こういう背景を踏まえると、何によって「ガス抜き」するかは、深刻な問題です。今の社会は、打ち込める仕事なく、時間と力を持て余しているのに、お金のない人を、何ら楽しみ(偶発性)のない環境に放り出しているのです。
文化芸術が「ガス抜き」として重要だというのは、上記の社会認識をもとにしています。これがおそらく、今の静岡で現実的な文化芸術の社会的機能、その第一段階です。例えば、ライブハウスがあれば、そこに集う人たちの間に交流が生まれるし、パチンコやカラオケもストレス発散の役に立ちます。
第二段階があります。文化芸術と一口に言っても、かなり広範の事柄を含みます。パチンコやゲームセンター、テレビやインターネットも文化芸術ですし、現代美術や文学や演劇、茶道や華道も文化芸術です。当然、個別のジャンルによって得られるものは変わってきます。であれば、「ガス抜き」にとどまらない機能も期待できる。
第二段階は、言ってみれば「向上心の慰撫」のような機能。鑑賞者に思考を促すような文化芸術のジャンルにおいては、鑑賞も知性の営みになりますから、「半分勉強、半分楽しみ」になります。
こういったタイプの文化芸術を好む人は、社会的にそれなりの生活を送っている人が多いのも現実だと思います。安定した職を持ち、余暇に使えるお金を持つ人。こうした人たちもどこか物足りない感じを持つのは当然で、先に書いたように現在のまちはおもしろくない(人と交流できない)ですから、偶発性を求めれば、文化的イベントに参加したり、芸術を鑑賞したり、といった趣味を持つようになる。
共同体の空洞化について、家族間の社会認識の違いや住宅環境の変化を指摘しました。ここでも一つデータを持ち出すと、静岡県の人口の社会動態(転出入)です。統計センターしずおかの人口推移のデータを参照すると、毎月、だいたい人口の0.2%が転出入をしています。これが多いのか少ないのか判断は難しいですが、東京都においても人口における同じくらいの割合で毎月転出入がありますから、けっこう流動性があると言える。つまり静岡から県外へ出ていく住民が一定数いる一方で、県外から静岡へ入ってくる住民が同様にいる。新住民は地元の共同体に入ることができるかわかりませんし、もとからある共同体とは違う文化を持ち込みます。こういう観点からも、共同体の空洞化を言うことができます。
「向上心の慰撫」というのは、「もうちょっとなんとかしたい!」という向上心を持つ時に、文化芸術の場が手がかりになるからです。「ガス抜き」で終らないのは、知性の営みのよいところで、探究心さえあれば、無限に広がる文化芸術の世界を知りたいと欲するし、それらが生活を反省する機会にもなる。「慰撫」なので「ガス抜き」と大差ないと思われるかもしれませんが、考えるという機会を通すと、現代社会や自己認識について、気づきを促されることになるでしょう。
「ガス抜き」と「向上心の慰撫」。文化芸術の社会的機能について、大まかな理解を示しました。どちらも創作者としてではなく、鑑賞者として見えることです。創作者の世界は、もっとぶっ飛んでいて狂った世界ですが、こちらについては、いずれ機会があれば書くことにしましょう。
前々回のコラムで告知をしたDARA DA MONDEオープンスクール「オルタナティブスペースとアーティストの現在〜甲府と清水を事例に〜」は無事に終了しました。甲府市で海外からアーティストを招いて滞在制作を企画している坂本泉氏の活動は、停滞する地域社会への起爆剤としてとてもおもしろい試みでした。このトークの模様は、現在発行準備をしているDARA DA MONDE第3号に採録する予定です。今後ともご注目ください。
「オルタナティブスペースとアーティストの現在〜甲府と清水を事例に」の様子
それでは、1年間ありがとうございました。ごきげんよう。
今回のトピックは、コラム全体のまとめの意味合いを込めて、文化芸術の社会的機能についてです。文化芸術の社会的機能を考えるとき、静岡市に暮らすぼくの実感にもっとも近いのは、一種の「ガス抜き」。社会的不満を解消する手段として、文化芸術が置かれている場面によく出会います。
総務省統計局の労働力調査(2013年10月)によれば、就業者数6366万人のうち1964万人が非正規雇用者です。非正規雇用とは変な言い方ですが、勤め先での呼称が正規職員・従業員以外の人のこと。アルバイトやパート、派遣社員等です。つまり就業者のうち約3割は非正規雇用者ということです。非正規雇用者は、給料が限られる上、雇用の状況が不安定ですから将来の見通しを立てにくく、社会保障も十分に受けられない場合が多い。こうなると当然、不満が溜まることになる。
この不満をどこで解消するか。一昔前ならば、家族や友達といった人間関係を通して不満を解消していたのかもしません。ところが現在、それに代わる共同体があるかというと、希薄になっている。仮に実家暮らしをしているとしても、親世代と子世代で社会認識がずいぶん違う。非正規雇用者数を見るだけでも増大傾向にあり、親世代の若い頃とは労働環境が変わっている。そうであれば話が通じない。
偶発的に友達ができる機会も減っていると思います。例えば、住宅の構造を考えてみるとわかりやすい。昔の家ならば、お隣の生活空間を窓ごしに見ることも普通だったと思います。半透明な生活空間の区切りによって、近所との交流が生まれるし、そこから「醤油の貸し借り」的関係ができてくる。ここに相互扶助が自ずと生まれるわけですが、現在の住宅環境ではこうした交流の余地がない。アパートやマンションではお隣の顔さえ知らないし、住宅街を歩いても生活空間が垣間見えて自然と会話が生まれるような状況はまずない。
こういう背景を踏まえると、何によって「ガス抜き」するかは、深刻な問題です。今の社会は、打ち込める仕事なく、時間と力を持て余しているのに、お金のない人を、何ら楽しみ(偶発性)のない環境に放り出しているのです。
文化芸術が「ガス抜き」として重要だというのは、上記の社会認識をもとにしています。これがおそらく、今の静岡で現実的な文化芸術の社会的機能、その第一段階です。例えば、ライブハウスがあれば、そこに集う人たちの間に交流が生まれるし、パチンコやカラオケもストレス発散の役に立ちます。
第二段階があります。文化芸術と一口に言っても、かなり広範の事柄を含みます。パチンコやゲームセンター、テレビやインターネットも文化芸術ですし、現代美術や文学や演劇、茶道や華道も文化芸術です。当然、個別のジャンルによって得られるものは変わってきます。であれば、「ガス抜き」にとどまらない機能も期待できる。
第二段階は、言ってみれば「向上心の慰撫」のような機能。鑑賞者に思考を促すような文化芸術のジャンルにおいては、鑑賞も知性の営みになりますから、「半分勉強、半分楽しみ」になります。
こういったタイプの文化芸術を好む人は、社会的にそれなりの生活を送っている人が多いのも現実だと思います。安定した職を持ち、余暇に使えるお金を持つ人。こうした人たちもどこか物足りない感じを持つのは当然で、先に書いたように現在のまちはおもしろくない(人と交流できない)ですから、偶発性を求めれば、文化的イベントに参加したり、芸術を鑑賞したり、といった趣味を持つようになる。
共同体の空洞化について、家族間の社会認識の違いや住宅環境の変化を指摘しました。ここでも一つデータを持ち出すと、静岡県の人口の社会動態(転出入)です。統計センターしずおかの人口推移のデータを参照すると、毎月、だいたい人口の0.2%が転出入をしています。これが多いのか少ないのか判断は難しいですが、東京都においても人口における同じくらいの割合で毎月転出入がありますから、けっこう流動性があると言える。つまり静岡から県外へ出ていく住民が一定数いる一方で、県外から静岡へ入ってくる住民が同様にいる。新住民は地元の共同体に入ることができるかわかりませんし、もとからある共同体とは違う文化を持ち込みます。こういう観点からも、共同体の空洞化を言うことができます。
「向上心の慰撫」というのは、「もうちょっとなんとかしたい!」という向上心を持つ時に、文化芸術の場が手がかりになるからです。「ガス抜き」で終らないのは、知性の営みのよいところで、探究心さえあれば、無限に広がる文化芸術の世界を知りたいと欲するし、それらが生活を反省する機会にもなる。「慰撫」なので「ガス抜き」と大差ないと思われるかもしれませんが、考えるという機会を通すと、現代社会や自己認識について、気づきを促されることになるでしょう。
「ガス抜き」と「向上心の慰撫」。文化芸術の社会的機能について、大まかな理解を示しました。どちらも創作者としてではなく、鑑賞者として見えることです。創作者の世界は、もっとぶっ飛んでいて狂った世界ですが、こちらについては、いずれ機会があれば書くことにしましょう。
前々回のコラムで告知をしたDARA DA MONDEオープンスクール「オルタナティブスペースとアーティストの現在〜甲府と清水を事例に〜」は無事に終了しました。甲府市で海外からアーティストを招いて滞在制作を企画している坂本泉氏の活動は、停滞する地域社会への起爆剤としてとてもおもしろい試みでした。このトークの模様は、現在発行準備をしているDARA DA MONDE第3号に採録する予定です。今後ともご注目ください。
「オルタナティブスペースとアーティストの現在〜甲府と清水を事例に」の様子
それでは、1年間ありがとうございました。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年12月12日
第23回 芸術だけが見せられるコト
11月23日から12月1日まで、静岡市のGallery PSYS(ギャラリーサイズ)で、常葉大学の研究生佐藤百合子さんの個展が開催されていました。
◆Gallery PSYSの公式サイト
http://www.psys-d.com/gallery/index.html
佐藤さんの作品は、紙や布にシャープペンで描いた絵画です。輪郭線で造形された人物や動物の所々に模様が描き込まれています。
シャープペンはどのくらい長持ちする素材なのでしょう。と言うのは、絵画の根本的な原理は、イメージをとどめたいという欲求にあると思うんです。とどめることで何をするかというと、認識をつくるのだと思います。
例えば、原始時代の洞窟壁画を思い浮かべると、描くことで認識しているという感じがする。人に見せて楽しませるとか、部屋を飾るとか、そういうことより、頭の中に残ったイメージをとどめておくことで認識を確かめているのではないでしょうか。「これがバッファローだ」「これがヘラジカだ」と、言葉を知るように、絵画によって認識する。
こういう感覚が現代の絵画にも残っているとすれば、必然的に長持ちする素材を用いようという発想になると思います。絵画はできるだけ長く残る方がよい。頭の中のイメージと同じように瞬く間に消えていく儚いものでは困る。根本的な絵画欲求に反するから。
そう考えたかどうかは知りませんが、と言うより、表現の幅への配慮や販売にともなう制約の方が直接的な理由だとは思いますが、画家たちは画材にこだわってきました。シャープペンは長持ちするのかとふと思ったのは、そんなことが念頭にあったからです。
絵画を認識のツールと考えると、認識は永続した方がよいので、絵画自体も永続した方がよいという論理になります。ある認識を示すためにある物をつくらなければいけないとすると、ある物がなくなった時、果たして認識は残るのかという疑問が出てくる。その物を通してしか見えない認識を示すのが芸術だと言うことができますから、物としての芸術がなくなれば、認識が残らない可能性がある。
別の言語に変換されると残ります。特に舞台芸術に顕著ですが、上演は消えてなくなるものなので、上演を説明する批評によってしか後世へ伝えることができませんでした。でした、と過去形で書くのは、現代では、写真や映像といった記録媒体を通して、上演の片鱗を後世へ伝えることができるからです。
芸術を通してしか認識できないことがあると書きました。極端に言えば、それを見るために芸術に触れるのですが、静岡という地域性もあるのでしょうか、なかなかそこに踏み込んでいけない感じを持っています。
さしあたり思いつく背景に、芸術とデザインの領域の越境がある。デザインへの注目は、近年益々強まっていると思います。工業製品や広告やファッションの意匠にとどまらず、「ソーシャルデザイン」「コミュニティデザイン」と言うように、人間関係や社会を「デザイン」するという発想も普通になりました。その可能性は魅力的ですが、懸念もあります。
ぼくが気になるのは、デザインが存在の仕方を扱う力だということです。どこに何を置けば物事があるべき姿に見えるのか、あるべき形で動くのか、そのしっくりするポイントをおさえるのがデザイナーの仕事でしょう。その意味で、デザインは物事の存在を扱うと言えると思うのです。
存在自体に価値があるのは当然で、あらためてそこに意味を生み出す必要はない。あるべきところに置かれた物事を見れば、人は「そうそう、これを望んでいた」と思うものです。それで十分に価値がある。
これに対して、芸術は、存在やその組み合わせによって、何らかの意味を形づくります。認識の領域はここにあるわけですが、芸術がデザインの仕事と混同されると、意味が扱われなくなる。作家は何の認識も示さなくなってしまう。そういう芸術のあり方に、ぼくは物足りなさを感じています。
嫌な話ですが、自分の考えを持たない人は、考えを持つ人に使われるほかありません。芸術も同じで、認識を示すことができない作家は、いいように使われるか、そうでなければ相手にされない。よい人にいいように使われるならばまだしも、悪い人にいいように使われることもある。意味を扱うことができなければ、悪用されることに気づかない可能性もあります。
現代作家の中にはデザインとしての芸術を追求している人もいますし、過去の偉大な芸術家の中にはデザインこそ芸術の本質と考えた人もいました。そういう考え方をおとしめるつもりはありません。むしろ確かな考えのもとにデザインの力を使うならば、人の体験を通して新しい意味の可能性がひらかれることもあるでしょう。しかし、現在のようにデザインのインフラ状態となれば、目につくのは形骸化したデザインばかり。その影で見失われている、芸術を通してしか見えない認識を、恋しく思うような、懐かしく思うような、そんな気持ちがあります。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆Gallery PSYSの公式サイト
http://www.psys-d.com/gallery/index.html
佐藤さんの作品は、紙や布にシャープペンで描いた絵画です。輪郭線で造形された人物や動物の所々に模様が描き込まれています。
シャープペンはどのくらい長持ちする素材なのでしょう。と言うのは、絵画の根本的な原理は、イメージをとどめたいという欲求にあると思うんです。とどめることで何をするかというと、認識をつくるのだと思います。
例えば、原始時代の洞窟壁画を思い浮かべると、描くことで認識しているという感じがする。人に見せて楽しませるとか、部屋を飾るとか、そういうことより、頭の中に残ったイメージをとどめておくことで認識を確かめているのではないでしょうか。「これがバッファローだ」「これがヘラジカだ」と、言葉を知るように、絵画によって認識する。
こういう感覚が現代の絵画にも残っているとすれば、必然的に長持ちする素材を用いようという発想になると思います。絵画はできるだけ長く残る方がよい。頭の中のイメージと同じように瞬く間に消えていく儚いものでは困る。根本的な絵画欲求に反するから。
そう考えたかどうかは知りませんが、と言うより、表現の幅への配慮や販売にともなう制約の方が直接的な理由だとは思いますが、画家たちは画材にこだわってきました。シャープペンは長持ちするのかとふと思ったのは、そんなことが念頭にあったからです。
絵画を認識のツールと考えると、認識は永続した方がよいので、絵画自体も永続した方がよいという論理になります。ある認識を示すためにある物をつくらなければいけないとすると、ある物がなくなった時、果たして認識は残るのかという疑問が出てくる。その物を通してしか見えない認識を示すのが芸術だと言うことができますから、物としての芸術がなくなれば、認識が残らない可能性がある。
別の言語に変換されると残ります。特に舞台芸術に顕著ですが、上演は消えてなくなるものなので、上演を説明する批評によってしか後世へ伝えることができませんでした。でした、と過去形で書くのは、現代では、写真や映像といった記録媒体を通して、上演の片鱗を後世へ伝えることができるからです。
芸術を通してしか認識できないことがあると書きました。極端に言えば、それを見るために芸術に触れるのですが、静岡という地域性もあるのでしょうか、なかなかそこに踏み込んでいけない感じを持っています。
さしあたり思いつく背景に、芸術とデザインの領域の越境がある。デザインへの注目は、近年益々強まっていると思います。工業製品や広告やファッションの意匠にとどまらず、「ソーシャルデザイン」「コミュニティデザイン」と言うように、人間関係や社会を「デザイン」するという発想も普通になりました。その可能性は魅力的ですが、懸念もあります。
ぼくが気になるのは、デザインが存在の仕方を扱う力だということです。どこに何を置けば物事があるべき姿に見えるのか、あるべき形で動くのか、そのしっくりするポイントをおさえるのがデザイナーの仕事でしょう。その意味で、デザインは物事の存在を扱うと言えると思うのです。
存在自体に価値があるのは当然で、あらためてそこに意味を生み出す必要はない。あるべきところに置かれた物事を見れば、人は「そうそう、これを望んでいた」と思うものです。それで十分に価値がある。
これに対して、芸術は、存在やその組み合わせによって、何らかの意味を形づくります。認識の領域はここにあるわけですが、芸術がデザインの仕事と混同されると、意味が扱われなくなる。作家は何の認識も示さなくなってしまう。そういう芸術のあり方に、ぼくは物足りなさを感じています。
嫌な話ですが、自分の考えを持たない人は、考えを持つ人に使われるほかありません。芸術も同じで、認識を示すことができない作家は、いいように使われるか、そうでなければ相手にされない。よい人にいいように使われるならばまだしも、悪い人にいいように使われることもある。意味を扱うことができなければ、悪用されることに気づかない可能性もあります。
現代作家の中にはデザインとしての芸術を追求している人もいますし、過去の偉大な芸術家の中にはデザインこそ芸術の本質と考えた人もいました。そういう考え方をおとしめるつもりはありません。むしろ確かな考えのもとにデザインの力を使うならば、人の体験を通して新しい意味の可能性がひらかれることもあるでしょう。しかし、現在のようにデザインのインフラ状態となれば、目につくのは形骸化したデザインばかり。その影で見失われている、芸術を通してしか見えない認識を、恋しく思うような、懐かしく思うような、そんな気持ちがあります。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00