2013年10月31日
第20回 帯まつりのねっとりした歩み
2013年10月12日から14日まで、島田市で島田大祭帯まつりが開催されました。3年に1度の開催ということで、会場はたくさんの人で賑わっていました。
◆島田市公式サイトより「島田大祭」
http://www.city.shimada.shizuoka.jp/kankou/shimadataisai_105.html
◆大井神社公式サイトより「帯まつり」
http://www.ooijinjya.org/obimatsuri/
この祭りは、誰が決めたのか知りませんが、富士浅間神社の火祭り(山梨)、国府宮の裸祭り(愛知)と並び日本3奇祭のひとつになっています。ぼくは祭りの中日13日に初めて行きましたが、予想以上におもしろかったです。
帯まつりの目玉は大きい刀に金襴緞子の帯をかけた大奴と呼ばれる男たちです。

休憩中の大奴
祭りの由来に関係があります。島田では、よそから嫁いできた女が街中へ挨拶してまわる風習があったようで、次第に街が広域化する中、それではかわいそうだというので、男が身代わりになり女の帯を身につけて歩くようになったとのこと。だから大奴が目玉なのです。
と言っても、今では大奴だけでなく、祭りの見せ物は大名行列の形になっています。行列の到来を告げるお先触れ、侍大将たちの行列である御先騎、飾りを持って舞い邪気を払う大鳥毛、大きい荷物を背負った葛籠馬などが、殿様に扮して馬に乗った子どもの前後に長い行列をつくり、JR島田駅前から大井神社にかけて練り歩いていました。

子どもが侍大将をつとめる

記念撮影を求められる大奴

ひときわ大きい葛籠馬
大名行列の他にも、各街(街は「がい」と読み、各町内ごとの式典組織をさす)の屋台で踊りが披露されます。


演し物は街の屋台によって異なる
朝から晩までこの調子で演し物が続くので、計画を立てずに行っても何かしらにでくわし、充分に楽しめました。
帯を披露する風習が大井神社の大祭と合わさったのが江戸時代の元禄年間といわれます。300年以上続いている。伝統行事が現在でもこれだけ賑やかなのもすごいですが、参加者に若い人が多いのにも驚きました。名物の鹿島踊りを踊るのは子どもたちでしたし、町内ごとの屋台を運営しているのは若者たちのようでした。
地域の文化は廃れていくというステレオタイプな見方がありますが、地元の生活に古くから根差した文化は、やりようによって継続性も発展性もあるのかもしれません。古い祭りは物珍しさも含め見物のしがいがありますし、継続の正当性を理解されやすいはず。人口減少によって祭りの担い手が減るとしても、おもしろい祭りなら見物客は集まるでしょう。
地域の文化の難しいところに、地元の人がやっているから注目されるという面があります。どういうことかと言うと、外の人から見た時に内容がともなわないのに、地元の人が続けているから持ち上げられるという面です。地元の人にとって地元の祭りが大切なのは当然ですが、これを観光資源にする際に、果たして外の眼で見ておもしろいのかどうか。この客観的判断を抜きに、観光化を考えても始まらない。
祭りなどの伝統行事でない場合、地元のものだからと地元の人だけで楽しむことに疑問を持つこともあります。例えば、地元が舞台になった映画とか、地元の食材を使った料理とか。客観的に見て、おもしろくないし、うまくもないものを、地元の人たちだけで愛でていても仕方がないと思うことがある。愛着を否定はできませんが、全く関係ない人に対しても通じる価値を持ったものでないと、という感じがぼくはします。
そういう観点から見て、帯まつりはおもしろかった。何かそそられるものがあります。一番グッと来たのは、大名行列の先頭でただ歩いているおじさんたちでした。腰に手をかけ、妙にゆっくり、ねっとりと歩くのですが、気迫に満ちていて圧倒されました。

普段はどんな仕事をしてるんだろう
おもしろいと感じるのは、おそらく、祭りを担う人の気概や心意気みたいなものを受け取るからだと思います。
文化芸術はその土地の人の誇りに結びついていることがある。でも誇りだけではきっとそんなに人を魅了しない。誇りを一度外側から見て、冷ましておかないといけないんだと思う。おじさんたちのねっとりした歩みにはそれがあると感じるんです。外の視線を強烈に意識しながら何でもないことのようにゆったり歩む。外から来るお客さんに地元の祭りを見せる時の、他者の視線への敏感な感覚、そこにあるしたたかさみたいなものにグッと来る。
古くは美しい帯が評判になって人が集まるようになったということですから、ある意味で帯まつりはファッションショーです。おじさんたちがねっとり歩くファッションショー。文字で書くとあまり魅力的に聞こえないかもしれませんが、実際かなりカッコイイ。太い鯰髭をつけた大奴のおじさんたちもやたらにカッコよく見えます。
一見形骸化しているように見える祭りでも、形式を踏まえると、その実、土地の持つ特徴的な情感が出てくることがあるのかもしれない。おじさんたちのねっとりした歩みに、そんなことを感じていました。
神事としての側面は、最終日の御渡りと呼ばれる行事に色濃いようです。大井神社の神体を神輿で運ぶらしい。次回は3年後、まだ静岡に住んでいたら見物に行きたいと思います。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆島田市公式サイトより「島田大祭」
http://www.city.shimada.shizuoka.jp/kankou/shimadataisai_105.html
◆大井神社公式サイトより「帯まつり」
http://www.ooijinjya.org/obimatsuri/
この祭りは、誰が決めたのか知りませんが、富士浅間神社の火祭り(山梨)、国府宮の裸祭り(愛知)と並び日本3奇祭のひとつになっています。ぼくは祭りの中日13日に初めて行きましたが、予想以上におもしろかったです。
帯まつりの目玉は大きい刀に金襴緞子の帯をかけた大奴と呼ばれる男たちです。
休憩中の大奴
祭りの由来に関係があります。島田では、よそから嫁いできた女が街中へ挨拶してまわる風習があったようで、次第に街が広域化する中、それではかわいそうだというので、男が身代わりになり女の帯を身につけて歩くようになったとのこと。だから大奴が目玉なのです。
と言っても、今では大奴だけでなく、祭りの見せ物は大名行列の形になっています。行列の到来を告げるお先触れ、侍大将たちの行列である御先騎、飾りを持って舞い邪気を払う大鳥毛、大きい荷物を背負った葛籠馬などが、殿様に扮して馬に乗った子どもの前後に長い行列をつくり、JR島田駅前から大井神社にかけて練り歩いていました。
子どもが侍大将をつとめる
記念撮影を求められる大奴
ひときわ大きい葛籠馬
大名行列の他にも、各街(街は「がい」と読み、各町内ごとの式典組織をさす)の屋台で踊りが披露されます。
演し物は街の屋台によって異なる
朝から晩までこの調子で演し物が続くので、計画を立てずに行っても何かしらにでくわし、充分に楽しめました。
帯を披露する風習が大井神社の大祭と合わさったのが江戸時代の元禄年間といわれます。300年以上続いている。伝統行事が現在でもこれだけ賑やかなのもすごいですが、参加者に若い人が多いのにも驚きました。名物の鹿島踊りを踊るのは子どもたちでしたし、町内ごとの屋台を運営しているのは若者たちのようでした。
地域の文化は廃れていくというステレオタイプな見方がありますが、地元の生活に古くから根差した文化は、やりようによって継続性も発展性もあるのかもしれません。古い祭りは物珍しさも含め見物のしがいがありますし、継続の正当性を理解されやすいはず。人口減少によって祭りの担い手が減るとしても、おもしろい祭りなら見物客は集まるでしょう。
地域の文化の難しいところに、地元の人がやっているから注目されるという面があります。どういうことかと言うと、外の人から見た時に内容がともなわないのに、地元の人が続けているから持ち上げられるという面です。地元の人にとって地元の祭りが大切なのは当然ですが、これを観光資源にする際に、果たして外の眼で見ておもしろいのかどうか。この客観的判断を抜きに、観光化を考えても始まらない。
祭りなどの伝統行事でない場合、地元のものだからと地元の人だけで楽しむことに疑問を持つこともあります。例えば、地元が舞台になった映画とか、地元の食材を使った料理とか。客観的に見て、おもしろくないし、うまくもないものを、地元の人たちだけで愛でていても仕方がないと思うことがある。愛着を否定はできませんが、全く関係ない人に対しても通じる価値を持ったものでないと、という感じがぼくはします。
そういう観点から見て、帯まつりはおもしろかった。何かそそられるものがあります。一番グッと来たのは、大名行列の先頭でただ歩いているおじさんたちでした。腰に手をかけ、妙にゆっくり、ねっとりと歩くのですが、気迫に満ちていて圧倒されました。
普段はどんな仕事をしてるんだろう
おもしろいと感じるのは、おそらく、祭りを担う人の気概や心意気みたいなものを受け取るからだと思います。
文化芸術はその土地の人の誇りに結びついていることがある。でも誇りだけではきっとそんなに人を魅了しない。誇りを一度外側から見て、冷ましておかないといけないんだと思う。おじさんたちのねっとりした歩みにはそれがあると感じるんです。外の視線を強烈に意識しながら何でもないことのようにゆったり歩む。外から来るお客さんに地元の祭りを見せる時の、他者の視線への敏感な感覚、そこにあるしたたかさみたいなものにグッと来る。
古くは美しい帯が評判になって人が集まるようになったということですから、ある意味で帯まつりはファッションショーです。おじさんたちがねっとり歩くファッションショー。文字で書くとあまり魅力的に聞こえないかもしれませんが、実際かなりカッコイイ。太い鯰髭をつけた大奴のおじさんたちもやたらにカッコよく見えます。
一見形骸化しているように見える祭りでも、形式を踏まえると、その実、土地の持つ特徴的な情感が出てくることがあるのかもしれない。おじさんたちのねっとりした歩みに、そんなことを感じていました。
神事としての側面は、最終日の御渡りと呼ばれる行事に色濃いようです。大井神社の神体を神輿で運ぶらしい。次回は3年後、まだ静岡に住んでいたら見物に行きたいと思います。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年10月17日
第19回 スモールアートワールド
2013年10月5日、ぼくが編集代表をしているDARA DA MONDEの発行元オルタナティブスペース・スノドカフェ運営のギャラリーがオープンしました。名前はUDONOS(ウドノス)。スノドカフェから歩いて1分とかからない場所にあります。住所は静岡市清水区上原ですが、ここは日本平、有度山の麓に位置しています。UDONOSは「有度の巣」の意らしい。
◆オルタナティブスペース・スノドカフェのサイトよりUDONOSの紹介
http://www.sndcafe.net/event/2013/10/exhibition001.html
オーナーの柚木康裕さんによれば、地元のアーティストに発表の場を提供したり、企画展示を行ったりしていきたいとのこと。スノドカフェが活発な活動の場になっている中、新しいギャラリーがどのように展開されていくのか楽しみです。

UDONOSの外観

オープニングパーティの様子
今年5月には同じく清水区内でSUN(サン)というギャラリーがオープンしています。こちらは元美術講師の鈴木茂明さんが自宅の1階をまるごとギャラリーにした場所。住宅の玄関からインターホンを鳴らしてお邪魔するので、知人の家に遊びに行くような不思議な感覚になるギャラリーです。
清水区にギャラリーが増えているのはおもしろい現象です。UDONOSにしてもSUNにしても、オーナーが美術へ思い入れを持ち、自主的に運営できる場所を確保するという点は同じです。
芸術活動は作品をどのように世の中へ問うのかという観点を抜きにできません。作品発表をする場を確保しなくてはいけないし、展示を通して発表空間を編集する作業が必要になります。もっと積極的に考えれば、そこで作品を販売して生計を立てたり、芸術を組織するコーディネーターとコネクションをつくり活躍の場を広げたり、そんなことが活動の継続にはとても大切です。
多くの場合、芸術家だけではこういった営みは不可能です。ですから、企画を立てたり、発表場所を提供したり、販売したり営業したり、言ってみれば、普通の会社と同じような営みが芸術の自律性を支えています。(普通の会社と違うのは、芸術の中にはどう考えても利益を生むことができず、それでも価値が認められる分野があるということです。その場合は税金を投入し、創作や保存を維持します。)
こう考えると、静岡市くらいの規模の自治体では狭い意味でのアートワールド(芸術関係者が織りなすネットワークの総体)が成立しにくい。都市になればなるほど人口が増えますから、芸術活動の節々で必要になる役割を担う人材がいるわけです。人口が少なければ当然こういった人材は不足する。
ならばなぜ、人口増加の兆しがあるわけでもない静岡市清水区で、ギャラリー運営を始める人が出てくるのか。かなり挑戦的な試みと思います。
ぼくの仮説はこういうものです。
グローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義の間に乖離が起こっているとすれば、その歪みを感じやすいのは間違いなく地方都市でしょう。グローバル資本主義の恩恵を受けやすい大都市では不満が溜まりにくいですし、不満を解消してくれるフックも多分に用意されている。これが地方都市になるとそうはいかない。静岡市は他の地方都市に比べれば元気な方で経済的に決定的な行き詰まりを見せているわけではありませんが、それでも上記の乖離を実感している人たちがいる。
こういう社会背景を置くと、文化芸術は資本主義と民主主義の間の緩衝剤のようなものです。両者の摩擦から生じる不満を、文化芸術にまつわるネットワークが回収し、無効にするのです。これにはいい面も悪い面もあります。不満を解消するという限りで精神衛生上いいですが、根本的な社会の歪みに向き合わないよう人々を組織するという意味で悪いです。(少なくとも現実の活動を見るかぎり、そういう芸術活動が多いです。)
この仮説の上に、清水区にギャラリーができているという現実を加えると、積極的な意義を見出すことができます。資本主義と民主主義の間で、どちらにも寄与するような形を目指すことです。
資本主義以外の可能性を考えたい気持ちもありますが、それはあまりに大きい課題なのでひとまず置きます。まずは適切な規模の市場経済を企画することが必要なのではないかと思います。その均衡点はグローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義が乖離しない点になるのではないかと思うのです。この均衡点を探ることが、文化芸術の課題ではないかと思います。
と言って、文化芸術ですから、経済理論を駆使してこれを探るわけではない。何を基礎に探るかと言えば、感性です。感性で均衡点を身につけるような、そういうことができるのではないかと、ぶっとんだ意見に聞こえるかもしれませんが、そんなことをぼくは考えています。
感性は長らく不安定で曖昧なものだと思われてきました。五感をもとに判断すればとかく快楽を追求する形になりがちです。しかし感性には精神的営みも含まれています。良識に根差した感性のあり方があるはずだし、この軸が定まれば、資本主義と民主主義の均衡点をはかることもできるのではないかと思うのです。
もっとも日本の場合、空気を察知する能力が感性と言い換えられることがあります。これには要注意です。単に空気を察知する能力ではない、良識に基づいた感性のあり方を醸成する場がありうる。こう言えば、そんなにぶっとんだ意見でもないでしょう。
経済的に成長が約束されているわけでもない土地で、自主的なギャラリー運営が増加している背景には、こういった時代精神への嗅覚があると思う、という話でした。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆オルタナティブスペース・スノドカフェのサイトよりUDONOSの紹介
http://www.sndcafe.net/event/2013/10/exhibition001.html
オーナーの柚木康裕さんによれば、地元のアーティストに発表の場を提供したり、企画展示を行ったりしていきたいとのこと。スノドカフェが活発な活動の場になっている中、新しいギャラリーがどのように展開されていくのか楽しみです。
UDONOSの外観
オープニングパーティの様子
今年5月には同じく清水区内でSUN(サン)というギャラリーがオープンしています。こちらは元美術講師の鈴木茂明さんが自宅の1階をまるごとギャラリーにした場所。住宅の玄関からインターホンを鳴らしてお邪魔するので、知人の家に遊びに行くような不思議な感覚になるギャラリーです。
清水区にギャラリーが増えているのはおもしろい現象です。UDONOSにしてもSUNにしても、オーナーが美術へ思い入れを持ち、自主的に運営できる場所を確保するという点は同じです。
芸術活動は作品をどのように世の中へ問うのかという観点を抜きにできません。作品発表をする場を確保しなくてはいけないし、展示を通して発表空間を編集する作業が必要になります。もっと積極的に考えれば、そこで作品を販売して生計を立てたり、芸術を組織するコーディネーターとコネクションをつくり活躍の場を広げたり、そんなことが活動の継続にはとても大切です。
多くの場合、芸術家だけではこういった営みは不可能です。ですから、企画を立てたり、発表場所を提供したり、販売したり営業したり、言ってみれば、普通の会社と同じような営みが芸術の自律性を支えています。(普通の会社と違うのは、芸術の中にはどう考えても利益を生むことができず、それでも価値が認められる分野があるということです。その場合は税金を投入し、創作や保存を維持します。)
こう考えると、静岡市くらいの規模の自治体では狭い意味でのアートワールド(芸術関係者が織りなすネットワークの総体)が成立しにくい。都市になればなるほど人口が増えますから、芸術活動の節々で必要になる役割を担う人材がいるわけです。人口が少なければ当然こういった人材は不足する。
ならばなぜ、人口増加の兆しがあるわけでもない静岡市清水区で、ギャラリー運営を始める人が出てくるのか。かなり挑戦的な試みと思います。
ぼくの仮説はこういうものです。
グローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義の間に乖離が起こっているとすれば、その歪みを感じやすいのは間違いなく地方都市でしょう。グローバル資本主義の恩恵を受けやすい大都市では不満が溜まりにくいですし、不満を解消してくれるフックも多分に用意されている。これが地方都市になるとそうはいかない。静岡市は他の地方都市に比べれば元気な方で経済的に決定的な行き詰まりを見せているわけではありませんが、それでも上記の乖離を実感している人たちがいる。
こういう社会背景を置くと、文化芸術は資本主義と民主主義の間の緩衝剤のようなものです。両者の摩擦から生じる不満を、文化芸術にまつわるネットワークが回収し、無効にするのです。これにはいい面も悪い面もあります。不満を解消するという限りで精神衛生上いいですが、根本的な社会の歪みに向き合わないよう人々を組織するという意味で悪いです。(少なくとも現実の活動を見るかぎり、そういう芸術活動が多いです。)
この仮説の上に、清水区にギャラリーができているという現実を加えると、積極的な意義を見出すことができます。資本主義と民主主義の間で、どちらにも寄与するような形を目指すことです。
資本主義以外の可能性を考えたい気持ちもありますが、それはあまりに大きい課題なのでひとまず置きます。まずは適切な規模の市場経済を企画することが必要なのではないかと思います。その均衡点はグローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義が乖離しない点になるのではないかと思うのです。この均衡点を探ることが、文化芸術の課題ではないかと思います。
と言って、文化芸術ですから、経済理論を駆使してこれを探るわけではない。何を基礎に探るかと言えば、感性です。感性で均衡点を身につけるような、そういうことができるのではないかと、ぶっとんだ意見に聞こえるかもしれませんが、そんなことをぼくは考えています。
感性は長らく不安定で曖昧なものだと思われてきました。五感をもとに判断すればとかく快楽を追求する形になりがちです。しかし感性には精神的営みも含まれています。良識に根差した感性のあり方があるはずだし、この軸が定まれば、資本主義と民主主義の均衡点をはかることもできるのではないかと思うのです。
もっとも日本の場合、空気を察知する能力が感性と言い換えられることがあります。これには要注意です。単に空気を察知する能力ではない、良識に基づいた感性のあり方を醸成する場がありうる。こう言えば、そんなにぶっとんだ意見でもないでしょう。
経済的に成長が約束されているわけでもない土地で、自主的なギャラリー運営が増加している背景には、こういった時代精神への嗅覚があると思う、という話でした。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00