2013年04月25日
第8回 ギャラリーとりこと若い才能
静岡県立美術館では、草間彌生展が始まりました。現代アート界のマスターとして尊敬を集める草間さん。一般的には水玉模様が大好きな変なおばさんとして認知されているかもしれません。DARA DA MONDEの発行者であるスノドカフェの柚木氏に伝え聞いたところによると、オープニングの挨拶で、草間さんは「死期が近づいているのを感じる。でも、死ぬ気でがんばります。」と淡々と話されたとか・・・。驚異の1929年生まれ。「晩年」・・・にあたる、であろう、近年のみずみずしい作品群を堪能したいところです。おばさんじゃないですね。おばあちゃんです。
◆静岡県立美術館 草間彌生展「永遠の永遠の永遠」
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2013/01.php
今回紹介するのは、大野カメラ店が経営する「ギャラリーとりこ」です。店長の大野仁志さんいわく、気軽に使える発表のスペース。ここから外の世界へ活躍の場を広げてほしい、とギャラリー運営を始めたそうです。静岡市北街道沿いにあり、中心市街地からのアクセスもよいため、若い作家たちに愛用されています。地域のカメラ屋として、一緒に歳を重ねていけるお客さんとネットワークを築きたい。そんな思いも、ギャラリーの空間に反映されているのかもしれません。大手量販店にカメラ販売では勝ち目がない。けれど、長いつきあいを通じた写真撮影は、人生をともに歩むのと同じ。ここでしかできない写真があるはず。ギャラリーでは毎月企画展も開催し、写真家の集いの場にもなっているようです。
◆大野カメラ店 http://ohnocameraworks.eshizuoka.jp/
◆ギャラリーとレンタル暗室 とりこ http://toriko.eshizuoka.jp/


大野カメラ店の店内

ギャラリーとりこの入口
どんな業界にもマスターがいれば、新入りがいます。新入りの意欲と実験性を、真正面から受け止めなければ、業界に新しい血液が入らなくなるでしょう。4月12日から17日まで、ギャラリーとりこで「無意識の行方」というタイトルの4人展が開催されました。企画をしたのは常葉大学造形学部3年の近藤大輔さんです。近藤さんは、静岡市を中心に、精力的に活動をしています。JR東静岡駅近くの文化施設グランシップの歩道沿い展示スペースに置かれた、近藤さんの虹の絵を見たことがある人もいるでしょう。

「無意識の行方」では、近藤さんのほか、坂隼治さん、佐野翔さん、古木香衣さん、の同年代の若い作家が集まりました。展示はとてもシンプルです。同じ大きさのキャンバスに限られた色を使用して描いた作品。1人2作品ずつ展示されています。近藤さんの話によると、キャンバスの大きさや色といった、絵を描く条件を限定することで、その縛りを意識し、かえって無意識が表に出てくるのではないかと考えたそうです。
結果的にできた作品を見て、ぼくが感じたのは、どれも似たような質感があることです。作家同士で打ち合わせて、あえて似たようなものを創作したわけではないようです。要素を限定していますから、おのずと似てくるのは当然ですが、そこから何らかの作家性、企画者の意図で言えば、作家固有の「無意識」を期待してしまうのが、鑑賞者の欲望でしょう。この同質性を率直に提示してくる作家たちに驚きました。



個性と言われるものが本当にあるならば、強烈な個性ほど注目を浴びる。そうであれば、強烈な個性を演じ続けることもあると思います。彼らにそんな身ぶりは全くない。ぼくはここに、清いものを感じます。作家として、それがよい振るまいなのかどうかはわかりません。もっと自己を演出して、我の強い展示を行った方が、作家として生きていくことを選んだ者にとってはよいのかもしれない。ですが、「無意識の行方」で彼らが提示したのは、無意識的に同質を志向している同世代の感性でした。そのこと自体に、ある批評性が宿っていると言える。
もちろん、個性なんてない、とすぐに判断を下すことはできません。注意深く絵を眺めれば、作家各自の筆使いの違いを見ることはできる。佐野さんは太い筆で奔放な線を躍動的に塗り重ねているし、近藤さんは筆の流れや配色に構成意識をもって画面を埋め、具体物を想起させもする。坂さんは画面の変化を極力おさえながら白の絵の具を印象的に浮かび上がらせているし、古木さんは偶然にまかせた描法で落ち着きのある画面を構成している。
それでも、ここに、同質性を感じる。共通点は、一つに明らかな具体物が描かれていないこと、二つにそれと連動して抽象表現になっていること、三つに色調が穏やかであること、四つに画面上のバランスがよいこと。
念のため質問して確かめたのですが、作品を展示した4人は、仲のよい友達というわけではなく、この企画のために近藤さんが声をかけたメンバーだそうです。とくに意気投合するような間柄ではない。それなのに、彼らの無意識が同質を志向しているとしたら、とても興味深い。
正直なところ、この同質性には危ういものを感じます。空気を読むとよく言いますが、企画を進める過程で、作家同士がなんとなく空気を読んで、結果的にこういったアウトプットになっているのかもしれない。グローバルに画一化する力が強く働いている昨今、無意識的に同質性を志向している感性を感じさせられると、どきっとします。倫理的に警戒する気持ちもわく。
しかし一方で、この同質性には、作家の勇気も感じさせます。ある作家とある作家が似た性質の作家として受け取られることを恐れていないからです。これは何より正直だし、こういう正直を創作の出発点にすればよいとも思うんです。また、個性の有無を度外視した、従来とは違う作家像が、すでに作家たちの念頭にあるのかもしれない。個性を殊更うたうような作家像ではない。地味かもしれないが、淡々と個人の関心をもとに創作を突きつめていく、その喜びを報酬にした、ただそれだけの存在。今の段階では、そこに輝きはないでしょう。けれど、突きつめた先に、人を驚かせるような成果が出る可能性がある。そういう意味で、この同質性の無意識は、飾らない創作態度の表明のようでもある。
展示に妙な清潔感があったのは、そのあたりと無関係ではないと思います。作家の足場を飾り気なく見つめる態度。それが仮に、個性なんてあるの?という、作家としては恐ろしい、その最初期に誰もが気づきうる事実だとしても、それを冷徹に見つめる勇気から、何か新しいことが起こるかもしれない。これは誠実な研究の基礎だろうし、また、無意識の同質性を逆手にとった表現もありうる。そんなことを考えました。
若い作家の展示からは色々なことを感じとります。ぼくもそう年齢が変わりませんから、むしろ一緒に次の時代をつくっていくような感覚です。無名の作家の中から、世界を変えてしまうようなスターが出てこないとも限りません。そんなふうに、小さいギャラリーを見て歩くと、楽しいものです。
最後に告知です。DARA DA MONDEでは、4月26日より、オープンスクールを開設します。発行元の清水区スノドカフェを会場に、月1回のペースで開催する講座です。柔軟な発想と議論ができる、楽しい学びの場を目指しますので、ぜひご参加ください。
◆西川のブログより「DARA DA MONDEオープンスクール」
http://nin2pujya.exblog.jp/18489208/
では、今回はこのへんで、ごきげんよう!
◆静岡県立美術館 草間彌生展「永遠の永遠の永遠」
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2013/01.php
今回紹介するのは、大野カメラ店が経営する「ギャラリーとりこ」です。店長の大野仁志さんいわく、気軽に使える発表のスペース。ここから外の世界へ活躍の場を広げてほしい、とギャラリー運営を始めたそうです。静岡市北街道沿いにあり、中心市街地からのアクセスもよいため、若い作家たちに愛用されています。地域のカメラ屋として、一緒に歳を重ねていけるお客さんとネットワークを築きたい。そんな思いも、ギャラリーの空間に反映されているのかもしれません。大手量販店にカメラ販売では勝ち目がない。けれど、長いつきあいを通じた写真撮影は、人生をともに歩むのと同じ。ここでしかできない写真があるはず。ギャラリーでは毎月企画展も開催し、写真家の集いの場にもなっているようです。
◆大野カメラ店 http://ohnocameraworks.eshizuoka.jp/
◆ギャラリーとレンタル暗室 とりこ http://toriko.eshizuoka.jp/
大野カメラ店の店内
ギャラリーとりこの入口
どんな業界にもマスターがいれば、新入りがいます。新入りの意欲と実験性を、真正面から受け止めなければ、業界に新しい血液が入らなくなるでしょう。4月12日から17日まで、ギャラリーとりこで「無意識の行方」というタイトルの4人展が開催されました。企画をしたのは常葉大学造形学部3年の近藤大輔さんです。近藤さんは、静岡市を中心に、精力的に活動をしています。JR東静岡駅近くの文化施設グランシップの歩道沿い展示スペースに置かれた、近藤さんの虹の絵を見たことがある人もいるでしょう。
「無意識の行方」では、近藤さんのほか、坂隼治さん、佐野翔さん、古木香衣さん、の同年代の若い作家が集まりました。展示はとてもシンプルです。同じ大きさのキャンバスに限られた色を使用して描いた作品。1人2作品ずつ展示されています。近藤さんの話によると、キャンバスの大きさや色といった、絵を描く条件を限定することで、その縛りを意識し、かえって無意識が表に出てくるのではないかと考えたそうです。
結果的にできた作品を見て、ぼくが感じたのは、どれも似たような質感があることです。作家同士で打ち合わせて、あえて似たようなものを創作したわけではないようです。要素を限定していますから、おのずと似てくるのは当然ですが、そこから何らかの作家性、企画者の意図で言えば、作家固有の「無意識」を期待してしまうのが、鑑賞者の欲望でしょう。この同質性を率直に提示してくる作家たちに驚きました。
個性と言われるものが本当にあるならば、強烈な個性ほど注目を浴びる。そうであれば、強烈な個性を演じ続けることもあると思います。彼らにそんな身ぶりは全くない。ぼくはここに、清いものを感じます。作家として、それがよい振るまいなのかどうかはわかりません。もっと自己を演出して、我の強い展示を行った方が、作家として生きていくことを選んだ者にとってはよいのかもしれない。ですが、「無意識の行方」で彼らが提示したのは、無意識的に同質を志向している同世代の感性でした。そのこと自体に、ある批評性が宿っていると言える。
もちろん、個性なんてない、とすぐに判断を下すことはできません。注意深く絵を眺めれば、作家各自の筆使いの違いを見ることはできる。佐野さんは太い筆で奔放な線を躍動的に塗り重ねているし、近藤さんは筆の流れや配色に構成意識をもって画面を埋め、具体物を想起させもする。坂さんは画面の変化を極力おさえながら白の絵の具を印象的に浮かび上がらせているし、古木さんは偶然にまかせた描法で落ち着きのある画面を構成している。
それでも、ここに、同質性を感じる。共通点は、一つに明らかな具体物が描かれていないこと、二つにそれと連動して抽象表現になっていること、三つに色調が穏やかであること、四つに画面上のバランスがよいこと。
念のため質問して確かめたのですが、作品を展示した4人は、仲のよい友達というわけではなく、この企画のために近藤さんが声をかけたメンバーだそうです。とくに意気投合するような間柄ではない。それなのに、彼らの無意識が同質を志向しているとしたら、とても興味深い。
正直なところ、この同質性には危ういものを感じます。空気を読むとよく言いますが、企画を進める過程で、作家同士がなんとなく空気を読んで、結果的にこういったアウトプットになっているのかもしれない。グローバルに画一化する力が強く働いている昨今、無意識的に同質性を志向している感性を感じさせられると、どきっとします。倫理的に警戒する気持ちもわく。
しかし一方で、この同質性には、作家の勇気も感じさせます。ある作家とある作家が似た性質の作家として受け取られることを恐れていないからです。これは何より正直だし、こういう正直を創作の出発点にすればよいとも思うんです。また、個性の有無を度外視した、従来とは違う作家像が、すでに作家たちの念頭にあるのかもしれない。個性を殊更うたうような作家像ではない。地味かもしれないが、淡々と個人の関心をもとに創作を突きつめていく、その喜びを報酬にした、ただそれだけの存在。今の段階では、そこに輝きはないでしょう。けれど、突きつめた先に、人を驚かせるような成果が出る可能性がある。そういう意味で、この同質性の無意識は、飾らない創作態度の表明のようでもある。
展示に妙な清潔感があったのは、そのあたりと無関係ではないと思います。作家の足場を飾り気なく見つめる態度。それが仮に、個性なんてあるの?という、作家としては恐ろしい、その最初期に誰もが気づきうる事実だとしても、それを冷徹に見つめる勇気から、何か新しいことが起こるかもしれない。これは誠実な研究の基礎だろうし、また、無意識の同質性を逆手にとった表現もありうる。そんなことを考えました。
若い作家の展示からは色々なことを感じとります。ぼくもそう年齢が変わりませんから、むしろ一緒に次の時代をつくっていくような感覚です。無名の作家の中から、世界を変えてしまうようなスターが出てこないとも限りません。そんなふうに、小さいギャラリーを見て歩くと、楽しいものです。
最後に告知です。DARA DA MONDEでは、4月26日より、オープンスクールを開設します。発行元の清水区スノドカフェを会場に、月1回のペースで開催する講座です。柔軟な発想と議論ができる、楽しい学びの場を目指しますので、ぜひご参加ください。
◆西川のブログより「DARA DA MONDEオープンスクール」
http://nin2pujya.exblog.jp/18489208/
では、今回はこのへんで、ごきげんよう!
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年04月11日
第7回 どまんなかセンターの時間感覚
JR東静岡駅近くにMARK IS 静岡(マークイズ静岡)という商業施設が、4月12日にオープンします。静岡に来た4年前から、このあたりに住んでいるのですが、たった4年の間にすっかり風景が変わりました。駅を中心に、マンション、銀行、駐車場、スーパーマーケットと次々に新しい建物ができている。久しぶりに東静岡駅へ降りる人はきっと驚くでしょう。都会になったなと。新しい商業施設ができると、昔ながらの商店街から客足が遠退くなど、人の流れが変わります。心なしか静岡市の中心市街地の店舗も入れ替わりが激しくなっているような気がする。この経済的な躍動感から、まち全体が元気であると感じられる面もある。残念ながら人口は減少傾向です。それでもこうやって新しいものをつくり、壊し、つくり、壊し、を繰り返さないと、人もお金も循環しないようになっている。消費者としての人の欲求は新規なものを求める。そのこと自体をやめるという選択肢は、生活そのもの、人の生き方そのものを見直さない限り、ないでしょう。これは大変に難しい。けれど、今進みつつある方向も、充分に踏み切っていると感じています。凄い勢いを持った世の中という生き物に、圧倒される思いがする。
今回紹介するのは、静岡県袋井市にあるどまんなかセンターというカルチャーセンターです。1950年から1989年まで中村洋裁学院として使用されていた木造建築です。
◆どまんなかセンターのブログ http://domacen.hamazo.tv/


3月3日に、ここを会場に演劇のワークショップがありました。鳥公園という東京を拠点に活動する演劇ユニットの演出家・西尾佳織さんが講師でした。
◆ 鳥公園のウェブサイト http://birdpark.web.fc2.com/
よく晴れた日曜の昼間、窓の外から陽光が差し込んで、気持ちのいい時間です。

2階の窓から眺める原野谷川
参加者は歴史を感じる色褪せた座布団に座り、輪をつくっています。

このワークショップは、「「話せなさ」を亡きものにしないで話す」というタイトルで、言葉を発する際の意味以外の側面に注意を向けさせるものでした。・・・と書いても、何のことだかわかりませんよね。ワークショップで何が行われたか、具体的に説明しましょう。
最初に参加者が自己紹介をします。一通り自己紹介が終わると、講師の西尾さんはおもむろに言いました。「じゃあ、もう一回、全く同じ自己紹介をしてください。」1回目は普通の自己紹介です。名前や職業、関心を持っていること等、その時思いついた事柄を脈絡なく話します。もう1度自己紹介をするなんて思いませんから、誰でもそうすることになるでしょう。2回目は、それを思い出しながら、なるべく同じように話すことになる。ここに「演劇」が起こるんです。2回目の自己紹介は、いわば、(ヘタクソな)俳優が、憶えきれない台詞をなんとか思い出しながら話すような感じです。話す内容は1回目よりも整理されていますが、そのぶん慎重になります。自己紹介を演じることになる。
他の参加者の自己紹介を見ていると、1回目の方がイキイキしていて、伝えたいことが伝わってくる印象がありました。2回目は、話の内容が整理されてはいても、1回目の躍動感が消えています。
西尾さんは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」をわけて考えていました。1回目の自己紹介は「言葉を発することで現れてしまうもの」がよく出る。初対面で恥ずかしい感じ、そのぶん理解されるよう誇張された身振りや手振り、こういうことに興味がある!と話す熱意、等々、話し手からよく伝わってくる。2回目の自己紹介は、自己紹介を演じる意識によって「言葉の意味」に注意が向くので、「言葉によって現れてしまうもの」が出にくい。丁寧に「言葉の意味」を追うような話し方になります。
そこから、ワークショップは次のステップへ進みます。今度は、最初に話す人が、会場まで来た道のりを話します。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、そこから電車に乗り、袋井駅で降りて、歩いて会場に来た」云々。すると、次の人が、その話をそっくりそのまま話します。おもしろいのは、その人が話している途中に、次の順番の人が、好きなキーワードを投げ込むんです。会場までの道のりを話している途中に、例えば「亀!」と言われた話し手は、無理矢理、亀の話を加えなくてはいけません。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、(隣の人「亀!」)・・・そうそう、途中に池があって亀が泳いでいるのが見えたんですよね、で、駅について電車に乗り・・・」といった具合。その次の人は、亀の話も含めた会場までの道のりをなぞりながら話すことになる。で、また次の人がキーワードを投げ込む。なので、どんどん話が膨らんでいきます。
ここで狙われていたのは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」という区別で言えば、前者をしっかり追いながら、なおかつ、後者を引き出す試みだったと言えるでしょう。前の人が話した内容を、その意味に即してなぞって話しているところに、突然、何の関係もない言葉が投げ入れられて、咄嗟に創話することになる。ここに、動揺だったり、動揺を隠す素振りだったり、嘘をつく笑みだったり、変なことを言ってしまったという恥じらいだったり・・・そんな「言葉を発することで現れてしまうもの」が出てくる。
西尾さんは参加者の様子を見て、はっきり、こういうことが起こっている、と説明するわけではありません。ワークショップを通して、何らかの気づきを参加者に促しているようです。ですから、上記の説明は、ぼくが感じたことをもとに書いています。
振り返って思うのは、なぜ、「言葉を発することで現れてしまうもの」に注意が向くよう仕掛けられたゲームが設けられたのか、ということです。ぼくが想像するに、そこに講師の演技に対する考え方があったのだと思います。参加者のほとんどは演劇経験があるわけではありませんでした。世代や職業もばらばらです。それでも、いつの間にか、参加者の「演技」を見ているような空間になっていた。人の話を「演技」として見る。そうすることで、「言葉の意味」だけでなく、「言葉を発することによって現れてしまうもの」を感じとり、その人が伝えようとすることの、より幅広い理解や想像を促されていたのだと思います
こう考えてみると、なるほどよいワークショップだったと思えてきます。演劇に馴染みがない人でも、普段の生活で人と接するときに、おのずとしていることを、より注意深く見つめる作業だったと言えるからです。
実際にワークショップに参加してみると、「言葉の意味」と「言葉によって現れてしまうもの」という区別さえ、「演技」に回収されていくような感触を持ちました。他人の話をそのままトレースして話すとき、「言葉の意味」を追うわけですが、そこにヘンテコなキーワードが投げ込まれて、咄嗟に対応しているうち、「言葉によって現れてしまうもの」が内発する(そして人にそう見える)、だけでなく、その「言葉によって現れてしまうもの」をも演じようとする心の動きを自覚できる。自分の発話を「演技」として自覚すると、「言葉によって現れてしまうもの」を先回りして把握し、それさえ広い意味での「言葉の意味」に回収できる形で演じようとしてしまう。どこまでが発話者の意図で、どこからがその外側なのか。「役者」になると、人にわからせたくなくなる。
このように、人の話を「演技」として見るだけでなく、自分の話を「演技」として自覚することで、より繊細で内省的なコミュニケーションの次元がひらけています。西尾さんがワークショップ冒頭に「演劇にはポテンシャルがある」と言っていましたが、この「演劇」ワークショップは、そういう注意深さをもとに演劇をつくっているという、講師の演技観の表明でもあったのかもしれません。
3月24日には、同じ会場で、ぼくがナビゲーターとなり、読書会を開催させてもらいました。終った後に、みんなで鍋をしたのも、楽しい思い出です。

どまんなかセンターは、もともとの用途をなくした建物です。洋裁学校はとっくに閉校しています。が、建物所有者の理解と管理提供をもとに、地元の有志によるボランティアの運営で、全く別の機能を持った場所として生まれ変わっている。日本の人口減少が明らかになり、空き建造物が増加している昨今、こういった場所は全国的に広がっていると思いますが、なぜかアート関係者の親和性が高い。よくイベント等を開催しています。この場所自体がお金を生み出すことはないかもしれませんが、こういう場で交わされる感性の衝突や和解が、人の想像力を刺激するのではないでしょうか。そういう意味で、次の時代を用意する、時間のたまりのような場所だと思います。
最後に告知。どまんなかセンターで、4月20日14:00から、「映画『クラウド アトラス』を考える」というトークイベントを開催します。現在公開中の映画に、ぼくが個人的に衝撃を受けたため、急遽開催することになりました。お時間ありましたら、ぜひご参加ください。
◆西川のブログより「緊急決定! 映画『クラウド アトラス』を考える」 http://nin2pujya.exblog.jp/18443499/
それでは、今回はこのへんで。ごきげんよう~。
今回紹介するのは、静岡県袋井市にあるどまんなかセンターというカルチャーセンターです。1950年から1989年まで中村洋裁学院として使用されていた木造建築です。
◆どまんなかセンターのブログ http://domacen.hamazo.tv/
3月3日に、ここを会場に演劇のワークショップがありました。鳥公園という東京を拠点に活動する演劇ユニットの演出家・西尾佳織さんが講師でした。
◆ 鳥公園のウェブサイト http://birdpark.web.fc2.com/
よく晴れた日曜の昼間、窓の外から陽光が差し込んで、気持ちのいい時間です。
2階の窓から眺める原野谷川
参加者は歴史を感じる色褪せた座布団に座り、輪をつくっています。
このワークショップは、「「話せなさ」を亡きものにしないで話す」というタイトルで、言葉を発する際の意味以外の側面に注意を向けさせるものでした。・・・と書いても、何のことだかわかりませんよね。ワークショップで何が行われたか、具体的に説明しましょう。
最初に参加者が自己紹介をします。一通り自己紹介が終わると、講師の西尾さんはおもむろに言いました。「じゃあ、もう一回、全く同じ自己紹介をしてください。」1回目は普通の自己紹介です。名前や職業、関心を持っていること等、その時思いついた事柄を脈絡なく話します。もう1度自己紹介をするなんて思いませんから、誰でもそうすることになるでしょう。2回目は、それを思い出しながら、なるべく同じように話すことになる。ここに「演劇」が起こるんです。2回目の自己紹介は、いわば、(ヘタクソな)俳優が、憶えきれない台詞をなんとか思い出しながら話すような感じです。話す内容は1回目よりも整理されていますが、そのぶん慎重になります。自己紹介を演じることになる。
他の参加者の自己紹介を見ていると、1回目の方がイキイキしていて、伝えたいことが伝わってくる印象がありました。2回目は、話の内容が整理されてはいても、1回目の躍動感が消えています。
西尾さんは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」をわけて考えていました。1回目の自己紹介は「言葉を発することで現れてしまうもの」がよく出る。初対面で恥ずかしい感じ、そのぶん理解されるよう誇張された身振りや手振り、こういうことに興味がある!と話す熱意、等々、話し手からよく伝わってくる。2回目の自己紹介は、自己紹介を演じる意識によって「言葉の意味」に注意が向くので、「言葉によって現れてしまうもの」が出にくい。丁寧に「言葉の意味」を追うような話し方になります。
そこから、ワークショップは次のステップへ進みます。今度は、最初に話す人が、会場まで来た道のりを話します。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、そこから電車に乗り、袋井駅で降りて、歩いて会場に来た」云々。すると、次の人が、その話をそっくりそのまま話します。おもしろいのは、その人が話している途中に、次の順番の人が、好きなキーワードを投げ込むんです。会場までの道のりを話している途中に、例えば「亀!」と言われた話し手は、無理矢理、亀の話を加えなくてはいけません。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、(隣の人「亀!」)・・・そうそう、途中に池があって亀が泳いでいるのが見えたんですよね、で、駅について電車に乗り・・・」といった具合。その次の人は、亀の話も含めた会場までの道のりをなぞりながら話すことになる。で、また次の人がキーワードを投げ込む。なので、どんどん話が膨らんでいきます。
ここで狙われていたのは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」という区別で言えば、前者をしっかり追いながら、なおかつ、後者を引き出す試みだったと言えるでしょう。前の人が話した内容を、その意味に即してなぞって話しているところに、突然、何の関係もない言葉が投げ入れられて、咄嗟に創話することになる。ここに、動揺だったり、動揺を隠す素振りだったり、嘘をつく笑みだったり、変なことを言ってしまったという恥じらいだったり・・・そんな「言葉を発することで現れてしまうもの」が出てくる。
西尾さんは参加者の様子を見て、はっきり、こういうことが起こっている、と説明するわけではありません。ワークショップを通して、何らかの気づきを参加者に促しているようです。ですから、上記の説明は、ぼくが感じたことをもとに書いています。
振り返って思うのは、なぜ、「言葉を発することで現れてしまうもの」に注意が向くよう仕掛けられたゲームが設けられたのか、ということです。ぼくが想像するに、そこに講師の演技に対する考え方があったのだと思います。参加者のほとんどは演劇経験があるわけではありませんでした。世代や職業もばらばらです。それでも、いつの間にか、参加者の「演技」を見ているような空間になっていた。人の話を「演技」として見る。そうすることで、「言葉の意味」だけでなく、「言葉を発することによって現れてしまうもの」を感じとり、その人が伝えようとすることの、より幅広い理解や想像を促されていたのだと思います
こう考えてみると、なるほどよいワークショップだったと思えてきます。演劇に馴染みがない人でも、普段の生活で人と接するときに、おのずとしていることを、より注意深く見つめる作業だったと言えるからです。
実際にワークショップに参加してみると、「言葉の意味」と「言葉によって現れてしまうもの」という区別さえ、「演技」に回収されていくような感触を持ちました。他人の話をそのままトレースして話すとき、「言葉の意味」を追うわけですが、そこにヘンテコなキーワードが投げ込まれて、咄嗟に対応しているうち、「言葉によって現れてしまうもの」が内発する(そして人にそう見える)、だけでなく、その「言葉によって現れてしまうもの」をも演じようとする心の動きを自覚できる。自分の発話を「演技」として自覚すると、「言葉によって現れてしまうもの」を先回りして把握し、それさえ広い意味での「言葉の意味」に回収できる形で演じようとしてしまう。どこまでが発話者の意図で、どこからがその外側なのか。「役者」になると、人にわからせたくなくなる。
このように、人の話を「演技」として見るだけでなく、自分の話を「演技」として自覚することで、より繊細で内省的なコミュニケーションの次元がひらけています。西尾さんがワークショップ冒頭に「演劇にはポテンシャルがある」と言っていましたが、この「演劇」ワークショップは、そういう注意深さをもとに演劇をつくっているという、講師の演技観の表明でもあったのかもしれません。
3月24日には、同じ会場で、ぼくがナビゲーターとなり、読書会を開催させてもらいました。終った後に、みんなで鍋をしたのも、楽しい思い出です。
どまんなかセンターは、もともとの用途をなくした建物です。洋裁学校はとっくに閉校しています。が、建物所有者の理解と管理提供をもとに、地元の有志によるボランティアの運営で、全く別の機能を持った場所として生まれ変わっている。日本の人口減少が明らかになり、空き建造物が増加している昨今、こういった場所は全国的に広がっていると思いますが、なぜかアート関係者の親和性が高い。よくイベント等を開催しています。この場所自体がお金を生み出すことはないかもしれませんが、こういう場で交わされる感性の衝突や和解が、人の想像力を刺激するのではないでしょうか。そういう意味で、次の時代を用意する、時間のたまりのような場所だと思います。
最後に告知。どまんなかセンターで、4月20日14:00から、「映画『クラウド アトラス』を考える」というトークイベントを開催します。現在公開中の映画に、ぼくが個人的に衝撃を受けたため、急遽開催することになりました。お時間ありましたら、ぜひご参加ください。
◆西川のブログより「緊急決定! 映画『クラウド アトラス』を考える」 http://nin2pujya.exblog.jp/18443499/
それでは、今回はこのへんで。ごきげんよう~。
Posted by 日刊いーしず at 12:00