2013年04月11日
第7回 どまんなかセンターの時間感覚
JR東静岡駅近くにMARK IS 静岡(マークイズ静岡)という商業施設が、4月12日にオープンします。静岡に来た4年前から、このあたりに住んでいるのですが、たった4年の間にすっかり風景が変わりました。駅を中心に、マンション、銀行、駐車場、スーパーマーケットと次々に新しい建物ができている。久しぶりに東静岡駅へ降りる人はきっと驚くでしょう。都会になったなと。新しい商業施設ができると、昔ながらの商店街から客足が遠退くなど、人の流れが変わります。心なしか静岡市の中心市街地の店舗も入れ替わりが激しくなっているような気がする。この経済的な躍動感から、まち全体が元気であると感じられる面もある。残念ながら人口は減少傾向です。それでもこうやって新しいものをつくり、壊し、つくり、壊し、を繰り返さないと、人もお金も循環しないようになっている。消費者としての人の欲求は新規なものを求める。そのこと自体をやめるという選択肢は、生活そのもの、人の生き方そのものを見直さない限り、ないでしょう。これは大変に難しい。けれど、今進みつつある方向も、充分に踏み切っていると感じています。凄い勢いを持った世の中という生き物に、圧倒される思いがする。
今回紹介するのは、静岡県袋井市にあるどまんなかセンターというカルチャーセンターです。1950年から1989年まで中村洋裁学院として使用されていた木造建築です。
◆どまんなかセンターのブログ http://domacen.hamazo.tv/


3月3日に、ここを会場に演劇のワークショップがありました。鳥公園という東京を拠点に活動する演劇ユニットの演出家・西尾佳織さんが講師でした。
◆ 鳥公園のウェブサイト http://birdpark.web.fc2.com/
よく晴れた日曜の昼間、窓の外から陽光が差し込んで、気持ちのいい時間です。

2階の窓から眺める原野谷川
参加者は歴史を感じる色褪せた座布団に座り、輪をつくっています。

このワークショップは、「「話せなさ」を亡きものにしないで話す」というタイトルで、言葉を発する際の意味以外の側面に注意を向けさせるものでした。・・・と書いても、何のことだかわかりませんよね。ワークショップで何が行われたか、具体的に説明しましょう。
最初に参加者が自己紹介をします。一通り自己紹介が終わると、講師の西尾さんはおもむろに言いました。「じゃあ、もう一回、全く同じ自己紹介をしてください。」1回目は普通の自己紹介です。名前や職業、関心を持っていること等、その時思いついた事柄を脈絡なく話します。もう1度自己紹介をするなんて思いませんから、誰でもそうすることになるでしょう。2回目は、それを思い出しながら、なるべく同じように話すことになる。ここに「演劇」が起こるんです。2回目の自己紹介は、いわば、(ヘタクソな)俳優が、憶えきれない台詞をなんとか思い出しながら話すような感じです。話す内容は1回目よりも整理されていますが、そのぶん慎重になります。自己紹介を演じることになる。
他の参加者の自己紹介を見ていると、1回目の方がイキイキしていて、伝えたいことが伝わってくる印象がありました。2回目は、話の内容が整理されてはいても、1回目の躍動感が消えています。
西尾さんは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」をわけて考えていました。1回目の自己紹介は「言葉を発することで現れてしまうもの」がよく出る。初対面で恥ずかしい感じ、そのぶん理解されるよう誇張された身振りや手振り、こういうことに興味がある!と話す熱意、等々、話し手からよく伝わってくる。2回目の自己紹介は、自己紹介を演じる意識によって「言葉の意味」に注意が向くので、「言葉によって現れてしまうもの」が出にくい。丁寧に「言葉の意味」を追うような話し方になります。
そこから、ワークショップは次のステップへ進みます。今度は、最初に話す人が、会場まで来た道のりを話します。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、そこから電車に乗り、袋井駅で降りて、歩いて会場に来た」云々。すると、次の人が、その話をそっくりそのまま話します。おもしろいのは、その人が話している途中に、次の順番の人が、好きなキーワードを投げ込むんです。会場までの道のりを話している途中に、例えば「亀!」と言われた話し手は、無理矢理、亀の話を加えなくてはいけません。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、(隣の人「亀!」)・・・そうそう、途中に池があって亀が泳いでいるのが見えたんですよね、で、駅について電車に乗り・・・」といった具合。その次の人は、亀の話も含めた会場までの道のりをなぞりながら話すことになる。で、また次の人がキーワードを投げ込む。なので、どんどん話が膨らんでいきます。
ここで狙われていたのは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」という区別で言えば、前者をしっかり追いながら、なおかつ、後者を引き出す試みだったと言えるでしょう。前の人が話した内容を、その意味に即してなぞって話しているところに、突然、何の関係もない言葉が投げ入れられて、咄嗟に創話することになる。ここに、動揺だったり、動揺を隠す素振りだったり、嘘をつく笑みだったり、変なことを言ってしまったという恥じらいだったり・・・そんな「言葉を発することで現れてしまうもの」が出てくる。
西尾さんは参加者の様子を見て、はっきり、こういうことが起こっている、と説明するわけではありません。ワークショップを通して、何らかの気づきを参加者に促しているようです。ですから、上記の説明は、ぼくが感じたことをもとに書いています。
振り返って思うのは、なぜ、「言葉を発することで現れてしまうもの」に注意が向くよう仕掛けられたゲームが設けられたのか、ということです。ぼくが想像するに、そこに講師の演技に対する考え方があったのだと思います。参加者のほとんどは演劇経験があるわけではありませんでした。世代や職業もばらばらです。それでも、いつの間にか、参加者の「演技」を見ているような空間になっていた。人の話を「演技」として見る。そうすることで、「言葉の意味」だけでなく、「言葉を発することによって現れてしまうもの」を感じとり、その人が伝えようとすることの、より幅広い理解や想像を促されていたのだと思います
こう考えてみると、なるほどよいワークショップだったと思えてきます。演劇に馴染みがない人でも、普段の生活で人と接するときに、おのずとしていることを、より注意深く見つめる作業だったと言えるからです。
実際にワークショップに参加してみると、「言葉の意味」と「言葉によって現れてしまうもの」という区別さえ、「演技」に回収されていくような感触を持ちました。他人の話をそのままトレースして話すとき、「言葉の意味」を追うわけですが、そこにヘンテコなキーワードが投げ込まれて、咄嗟に対応しているうち、「言葉によって現れてしまうもの」が内発する(そして人にそう見える)、だけでなく、その「言葉によって現れてしまうもの」をも演じようとする心の動きを自覚できる。自分の発話を「演技」として自覚すると、「言葉によって現れてしまうもの」を先回りして把握し、それさえ広い意味での「言葉の意味」に回収できる形で演じようとしてしまう。どこまでが発話者の意図で、どこからがその外側なのか。「役者」になると、人にわからせたくなくなる。
このように、人の話を「演技」として見るだけでなく、自分の話を「演技」として自覚することで、より繊細で内省的なコミュニケーションの次元がひらけています。西尾さんがワークショップ冒頭に「演劇にはポテンシャルがある」と言っていましたが、この「演劇」ワークショップは、そういう注意深さをもとに演劇をつくっているという、講師の演技観の表明でもあったのかもしれません。
3月24日には、同じ会場で、ぼくがナビゲーターとなり、読書会を開催させてもらいました。終った後に、みんなで鍋をしたのも、楽しい思い出です。

どまんなかセンターは、もともとの用途をなくした建物です。洋裁学校はとっくに閉校しています。が、建物所有者の理解と管理提供をもとに、地元の有志によるボランティアの運営で、全く別の機能を持った場所として生まれ変わっている。日本の人口減少が明らかになり、空き建造物が増加している昨今、こういった場所は全国的に広がっていると思いますが、なぜかアート関係者の親和性が高い。よくイベント等を開催しています。この場所自体がお金を生み出すことはないかもしれませんが、こういう場で交わされる感性の衝突や和解が、人の想像力を刺激するのではないでしょうか。そういう意味で、次の時代を用意する、時間のたまりのような場所だと思います。
最後に告知。どまんなかセンターで、4月20日14:00から、「映画『クラウド アトラス』を考える」というトークイベントを開催します。現在公開中の映画に、ぼくが個人的に衝撃を受けたため、急遽開催することになりました。お時間ありましたら、ぜひご参加ください。
◆西川のブログより「緊急決定! 映画『クラウド アトラス』を考える」 http://nin2pujya.exblog.jp/18443499/
それでは、今回はこのへんで。ごきげんよう~。
今回紹介するのは、静岡県袋井市にあるどまんなかセンターというカルチャーセンターです。1950年から1989年まで中村洋裁学院として使用されていた木造建築です。
◆どまんなかセンターのブログ http://domacen.hamazo.tv/
3月3日に、ここを会場に演劇のワークショップがありました。鳥公園という東京を拠点に活動する演劇ユニットの演出家・西尾佳織さんが講師でした。
◆ 鳥公園のウェブサイト http://birdpark.web.fc2.com/
よく晴れた日曜の昼間、窓の外から陽光が差し込んで、気持ちのいい時間です。
2階の窓から眺める原野谷川
参加者は歴史を感じる色褪せた座布団に座り、輪をつくっています。
このワークショップは、「「話せなさ」を亡きものにしないで話す」というタイトルで、言葉を発する際の意味以外の側面に注意を向けさせるものでした。・・・と書いても、何のことだかわかりませんよね。ワークショップで何が行われたか、具体的に説明しましょう。
最初に参加者が自己紹介をします。一通り自己紹介が終わると、講師の西尾さんはおもむろに言いました。「じゃあ、もう一回、全く同じ自己紹介をしてください。」1回目は普通の自己紹介です。名前や職業、関心を持っていること等、その時思いついた事柄を脈絡なく話します。もう1度自己紹介をするなんて思いませんから、誰でもそうすることになるでしょう。2回目は、それを思い出しながら、なるべく同じように話すことになる。ここに「演劇」が起こるんです。2回目の自己紹介は、いわば、(ヘタクソな)俳優が、憶えきれない台詞をなんとか思い出しながら話すような感じです。話す内容は1回目よりも整理されていますが、そのぶん慎重になります。自己紹介を演じることになる。
他の参加者の自己紹介を見ていると、1回目の方がイキイキしていて、伝えたいことが伝わってくる印象がありました。2回目は、話の内容が整理されてはいても、1回目の躍動感が消えています。
西尾さんは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」をわけて考えていました。1回目の自己紹介は「言葉を発することで現れてしまうもの」がよく出る。初対面で恥ずかしい感じ、そのぶん理解されるよう誇張された身振りや手振り、こういうことに興味がある!と話す熱意、等々、話し手からよく伝わってくる。2回目の自己紹介は、自己紹介を演じる意識によって「言葉の意味」に注意が向くので、「言葉によって現れてしまうもの」が出にくい。丁寧に「言葉の意味」を追うような話し方になります。
そこから、ワークショップは次のステップへ進みます。今度は、最初に話す人が、会場まで来た道のりを話します。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、そこから電車に乗り、袋井駅で降りて、歩いて会場に来た」云々。すると、次の人が、その話をそっくりそのまま話します。おもしろいのは、その人が話している途中に、次の順番の人が、好きなキーワードを投げ込むんです。会場までの道のりを話している途中に、例えば「亀!」と言われた話し手は、無理矢理、亀の話を加えなくてはいけません。「家から自転車に乗って浜松駅まで行き、(隣の人「亀!」)・・・そうそう、途中に池があって亀が泳いでいるのが見えたんですよね、で、駅について電車に乗り・・・」といった具合。その次の人は、亀の話も含めた会場までの道のりをなぞりながら話すことになる。で、また次の人がキーワードを投げ込む。なので、どんどん話が膨らんでいきます。
ここで狙われていたのは、「言葉の意味」と「言葉を発することによって現れてしまうもの」という区別で言えば、前者をしっかり追いながら、なおかつ、後者を引き出す試みだったと言えるでしょう。前の人が話した内容を、その意味に即してなぞって話しているところに、突然、何の関係もない言葉が投げ入れられて、咄嗟に創話することになる。ここに、動揺だったり、動揺を隠す素振りだったり、嘘をつく笑みだったり、変なことを言ってしまったという恥じらいだったり・・・そんな「言葉を発することで現れてしまうもの」が出てくる。
西尾さんは参加者の様子を見て、はっきり、こういうことが起こっている、と説明するわけではありません。ワークショップを通して、何らかの気づきを参加者に促しているようです。ですから、上記の説明は、ぼくが感じたことをもとに書いています。
振り返って思うのは、なぜ、「言葉を発することで現れてしまうもの」に注意が向くよう仕掛けられたゲームが設けられたのか、ということです。ぼくが想像するに、そこに講師の演技に対する考え方があったのだと思います。参加者のほとんどは演劇経験があるわけではありませんでした。世代や職業もばらばらです。それでも、いつの間にか、参加者の「演技」を見ているような空間になっていた。人の話を「演技」として見る。そうすることで、「言葉の意味」だけでなく、「言葉を発することによって現れてしまうもの」を感じとり、その人が伝えようとすることの、より幅広い理解や想像を促されていたのだと思います
こう考えてみると、なるほどよいワークショップだったと思えてきます。演劇に馴染みがない人でも、普段の生活で人と接するときに、おのずとしていることを、より注意深く見つめる作業だったと言えるからです。
実際にワークショップに参加してみると、「言葉の意味」と「言葉によって現れてしまうもの」という区別さえ、「演技」に回収されていくような感触を持ちました。他人の話をそのままトレースして話すとき、「言葉の意味」を追うわけですが、そこにヘンテコなキーワードが投げ込まれて、咄嗟に対応しているうち、「言葉によって現れてしまうもの」が内発する(そして人にそう見える)、だけでなく、その「言葉によって現れてしまうもの」をも演じようとする心の動きを自覚できる。自分の発話を「演技」として自覚すると、「言葉によって現れてしまうもの」を先回りして把握し、それさえ広い意味での「言葉の意味」に回収できる形で演じようとしてしまう。どこまでが発話者の意図で、どこからがその外側なのか。「役者」になると、人にわからせたくなくなる。
このように、人の話を「演技」として見るだけでなく、自分の話を「演技」として自覚することで、より繊細で内省的なコミュニケーションの次元がひらけています。西尾さんがワークショップ冒頭に「演劇にはポテンシャルがある」と言っていましたが、この「演劇」ワークショップは、そういう注意深さをもとに演劇をつくっているという、講師の演技観の表明でもあったのかもしれません。
3月24日には、同じ会場で、ぼくがナビゲーターとなり、読書会を開催させてもらいました。終った後に、みんなで鍋をしたのも、楽しい思い出です。
どまんなかセンターは、もともとの用途をなくした建物です。洋裁学校はとっくに閉校しています。が、建物所有者の理解と管理提供をもとに、地元の有志によるボランティアの運営で、全く別の機能を持った場所として生まれ変わっている。日本の人口減少が明らかになり、空き建造物が増加している昨今、こういった場所は全国的に広がっていると思いますが、なぜかアート関係者の親和性が高い。よくイベント等を開催しています。この場所自体がお金を生み出すことはないかもしれませんが、こういう場で交わされる感性の衝突や和解が、人の想像力を刺激するのではないでしょうか。そういう意味で、次の時代を用意する、時間のたまりのような場所だと思います。
最後に告知。どまんなかセンターで、4月20日14:00から、「映画『クラウド アトラス』を考える」というトークイベントを開催します。現在公開中の映画に、ぼくが個人的に衝撃を受けたため、急遽開催することになりました。お時間ありましたら、ぜひご参加ください。
◆西川のブログより「緊急決定! 映画『クラウド アトラス』を考える」 http://nin2pujya.exblog.jp/18443499/
それでは、今回はこのへんで。ごきげんよう~。
Posted by 日刊いーしず at 12:00