2013年11月28日
第22回 技術の卓越性はどこにある?
11月23日勤労感謝の日に、静岡市東海道広重美術館に行ってきました。
◆ 静岡市東海道広重美術館 http://tokaido-hiroshige.jp/
企画展のポスター
東海道の旧宿場町由比宿は、海が近く、古い町屋の面影を残した気持ちのいいところですね。広重美術館は由比宿の本陣跡敷地内にあります。
由比本陣公園の入口
広重美術館では浮世絵の歴史や制作方法をわかりやすく常設展示にしていますが、浮世絵に影響された現代のアーティストを取り上げる企画展示も行っています。2014年2月2日まで、『東京ストーリー/アフター広重』という企画展が開催されていました。
『東京ストーリー/アフター広重』では、英仏海峡にあるチャンネル諸島出身のアーティスト、エミリー・オールチャーチ氏による作品が展示されています。歌川広重の「名所江戸百景」のうち10作をもとにした作品です。広重の絵の構図をほぼそのまま模倣し、現代日本の風景写真や物体写真をデジタルでコラージュしていました。
オールチャーチ氏は、2013年4月に静岡市に滞在し、2つの作品を制作しました。広重の「東海道五拾三次之内」より由比宿薩埵嶺と丸子宿名物茶屋をもとにした、上記と同じ手法の写真コラージュです。
コラージュですから、広重が取り上げた景色の現在の状況を写真使用しているだけではありません。広重の絵がいかに不自然で大胆な構図をとっているかということでもあると思うのですが、広重の絵の構図に合うように写真を組み合わせています。追加される要素と言えば、電光掲示された広告やホームレスといった現代都市の象徴、また箸や湯飲みや着物といった日本の文化的記号です。そこに現れるイメージはエキゾチックでオリエンタルなアジア都市であり、日本人から見るとファンタジックにさえ感じます。
視覚表現を含む美術、映画、演劇等に顕著ですが、海外のアーティストが日本を扱うと、どうしてファンタジーになるのでしょう。ぼくたち日本人からファンタジーに見えるだけでなく、彼らも本気でファンタジックに日本を捉えているのでしょうか。それとも、例えば、ぼくたちがパリのエッフェル塔に持つ西洋的情緒と同じようなものとして、外国人の目線から日本に何らかの情緒を求めようとすると、ありがちな「日本」のイメージに落ち着くということなのでしょうか。
そう考えると、あまりおもろしくない。なぜなら、観光用にパッケージ化された「文化」のイメージをなぞっていることにしかならないからです。観光ならばそれでもいいかもしれませんが、現代芸術はそれではいけないと思う。
広重の「名所江戸百景」は、安政地震の後、復興する江戸の街並を捉えていると言われることがあります。この文化史を前提にすると、どうしても現在の日本の状況を思わずにはいられません。「名所江戸百景」を引用するならば、パッケージ化されたファンタジックなアジアのイメージにとどまることなく、現在性にひらかれたアクチュアルなイメージを追求するべきだと思います。
イメージを具現化するには、内容へのまなざしとともに、技術が必要です。浮世絵の中でも広重が多く手がけた版画は、絵師、彫師、摺師の技術が合わさった職人芸です。これはまた印刷技術の発展とともに廃れていった技術でもあります。オールチャーチ氏の作品は、デジタル技術で合成された写真です。広重の絵の構図を用いているとは言え、全く違う技術によって制作されている。ここに何らかの意味づけをすることができるかもしれない。
ぼくが考えたのはこういうことでした。この作品で使用されているデジタル技術はさらに100年、200年と経過すれば、すっかり廃れる可能性がある。その時、「当時はコンピュータ上で画像処理をするフォトショップというソフトフェアが普及しており、これを使って絵を制作するアーティストが多かった。このソフトウェアの仕様は・・・・・・」といった語り方がされるに違いない。とすれば、現在、デジタル技術によって制作された作品においては、どんなソフトを使って画像処理しているのか、そこまで明示してほしい。でないと、作品の真価を問うことはできないのではないか。
実際にオールチャーチ氏がどのように作品制作を行っているかはわかりません。フォトショップを使用しているかどうかもわからない。けれど、何らかのデジタル技術を使用していることは確かです。絵師、彫師、摺師の卓越した技の結晶が広重の版画なのだとすれば、同じように、現代の技術をどう使うかという観点から卓越性を見極めることが必要ではないでしょうか。
具体的に言えば、あるツールを使ってクリック1つでできることと、同じツールを使ってもそう簡単にできないことでは、当然、評価は変わるはず。コンピュータ上であらゆることができてしまう現代では、何のツールを使ったかわからなければ、技術上の卓越性を不問にふすしかなくなります。
アーティストの滞在制作は、アーティスト・イン・レジデンスと呼ばれ、だいぶん定着してきた感じがあります。作品制作だけでなく、土地の人々との交流を通じて、外の眼から土地の文化を見た時に、どう感じられるか、どう考えられるか、ということをあぶり出す手法として有効だと思います。
オールチャーチ氏の由比には茶畑や蜜柑、丸子には芭蕉の句(梅わかな 丸子の宿の とろろ汁)の記念碑がコラージュされていました。ここでもまたパッケージ化された静岡のイメージ。あまり滞在制作が活かされていない印象です。お茶も蜜柑もとろろ汁ももちろん美味しいですが、すでによく知られています。アーティストは文化について深く突っ込んだ考察ができるはずだし、それができる環境でなければ滞在制作をする意義に疑問符がつくでしょう。
最後に告知です。12月14日にDARA DA MONDEの企画を行います。山梨県甲府市でアーティスト・イン・レジデンスを行っているAIRY(エアリー)という施設の代表・坂本泉氏をお招きします。AIRYの記録映像の上映会とトークショーのセットです。海外から積極的にアーティストを招いているAIRYの活動により、甲府という規模の都市で何が起こっているのか。アーティストとオルタナティブスペースの現在形を探る企画です。会場はDARA DA MONDEの発行元スノドカフェ。ぜひご来場ください。
◆DARA DA MONDEオープンスクール 第3回
上映会&トーク
「オルタナティブスペースとアーティストの現在~甲府と清水を事例に~」
詳細はスノドカフェのサイトをご覧ください。
http://www.sndcafe.net/ddm/openschool2013b.html
それでは、今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆ 静岡市東海道広重美術館 http://tokaido-hiroshige.jp/
企画展のポスター
東海道の旧宿場町由比宿は、海が近く、古い町屋の面影を残した気持ちのいいところですね。広重美術館は由比宿の本陣跡敷地内にあります。
由比本陣公園の入口
広重美術館では浮世絵の歴史や制作方法をわかりやすく常設展示にしていますが、浮世絵に影響された現代のアーティストを取り上げる企画展示も行っています。2014年2月2日まで、『東京ストーリー/アフター広重』という企画展が開催されていました。
『東京ストーリー/アフター広重』では、英仏海峡にあるチャンネル諸島出身のアーティスト、エミリー・オールチャーチ氏による作品が展示されています。歌川広重の「名所江戸百景」のうち10作をもとにした作品です。広重の絵の構図をほぼそのまま模倣し、現代日本の風景写真や物体写真をデジタルでコラージュしていました。
オールチャーチ氏は、2013年4月に静岡市に滞在し、2つの作品を制作しました。広重の「東海道五拾三次之内」より由比宿薩埵嶺と丸子宿名物茶屋をもとにした、上記と同じ手法の写真コラージュです。
コラージュですから、広重が取り上げた景色の現在の状況を写真使用しているだけではありません。広重の絵がいかに不自然で大胆な構図をとっているかということでもあると思うのですが、広重の絵の構図に合うように写真を組み合わせています。追加される要素と言えば、電光掲示された広告やホームレスといった現代都市の象徴、また箸や湯飲みや着物といった日本の文化的記号です。そこに現れるイメージはエキゾチックでオリエンタルなアジア都市であり、日本人から見るとファンタジックにさえ感じます。
視覚表現を含む美術、映画、演劇等に顕著ですが、海外のアーティストが日本を扱うと、どうしてファンタジーになるのでしょう。ぼくたち日本人からファンタジーに見えるだけでなく、彼らも本気でファンタジックに日本を捉えているのでしょうか。それとも、例えば、ぼくたちがパリのエッフェル塔に持つ西洋的情緒と同じようなものとして、外国人の目線から日本に何らかの情緒を求めようとすると、ありがちな「日本」のイメージに落ち着くということなのでしょうか。
そう考えると、あまりおもろしくない。なぜなら、観光用にパッケージ化された「文化」のイメージをなぞっていることにしかならないからです。観光ならばそれでもいいかもしれませんが、現代芸術はそれではいけないと思う。
広重の「名所江戸百景」は、安政地震の後、復興する江戸の街並を捉えていると言われることがあります。この文化史を前提にすると、どうしても現在の日本の状況を思わずにはいられません。「名所江戸百景」を引用するならば、パッケージ化されたファンタジックなアジアのイメージにとどまることなく、現在性にひらかれたアクチュアルなイメージを追求するべきだと思います。
イメージを具現化するには、内容へのまなざしとともに、技術が必要です。浮世絵の中でも広重が多く手がけた版画は、絵師、彫師、摺師の技術が合わさった職人芸です。これはまた印刷技術の発展とともに廃れていった技術でもあります。オールチャーチ氏の作品は、デジタル技術で合成された写真です。広重の絵の構図を用いているとは言え、全く違う技術によって制作されている。ここに何らかの意味づけをすることができるかもしれない。
ぼくが考えたのはこういうことでした。この作品で使用されているデジタル技術はさらに100年、200年と経過すれば、すっかり廃れる可能性がある。その時、「当時はコンピュータ上で画像処理をするフォトショップというソフトフェアが普及しており、これを使って絵を制作するアーティストが多かった。このソフトウェアの仕様は・・・・・・」といった語り方がされるに違いない。とすれば、現在、デジタル技術によって制作された作品においては、どんなソフトを使って画像処理しているのか、そこまで明示してほしい。でないと、作品の真価を問うことはできないのではないか。
実際にオールチャーチ氏がどのように作品制作を行っているかはわかりません。フォトショップを使用しているかどうかもわからない。けれど、何らかのデジタル技術を使用していることは確かです。絵師、彫師、摺師の卓越した技の結晶が広重の版画なのだとすれば、同じように、現代の技術をどう使うかという観点から卓越性を見極めることが必要ではないでしょうか。
具体的に言えば、あるツールを使ってクリック1つでできることと、同じツールを使ってもそう簡単にできないことでは、当然、評価は変わるはず。コンピュータ上であらゆることができてしまう現代では、何のツールを使ったかわからなければ、技術上の卓越性を不問にふすしかなくなります。
アーティストの滞在制作は、アーティスト・イン・レジデンスと呼ばれ、だいぶん定着してきた感じがあります。作品制作だけでなく、土地の人々との交流を通じて、外の眼から土地の文化を見た時に、どう感じられるか、どう考えられるか、ということをあぶり出す手法として有効だと思います。
オールチャーチ氏の由比には茶畑や蜜柑、丸子には芭蕉の句(梅わかな 丸子の宿の とろろ汁)の記念碑がコラージュされていました。ここでもまたパッケージ化された静岡のイメージ。あまり滞在制作が活かされていない印象です。お茶も蜜柑もとろろ汁ももちろん美味しいですが、すでによく知られています。アーティストは文化について深く突っ込んだ考察ができるはずだし、それができる環境でなければ滞在制作をする意義に疑問符がつくでしょう。
最後に告知です。12月14日にDARA DA MONDEの企画を行います。山梨県甲府市でアーティスト・イン・レジデンスを行っているAIRY(エアリー)という施設の代表・坂本泉氏をお招きします。AIRYの記録映像の上映会とトークショーのセットです。海外から積極的にアーティストを招いているAIRYの活動により、甲府という規模の都市で何が起こっているのか。アーティストとオルタナティブスペースの現在形を探る企画です。会場はDARA DA MONDEの発行元スノドカフェ。ぜひご来場ください。
◆DARA DA MONDEオープンスクール 第3回
上映会&トーク
「オルタナティブスペースとアーティストの現在~甲府と清水を事例に~」
詳細はスノドカフェのサイトをご覧ください。
http://www.sndcafe.net/ddm/openschool2013b.html
それでは、今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年11月14日
第21回 没後100年 徳川慶喜展
最後の征夷大将軍であった徳川慶喜が亡くなって100年。千葉県の松戸市戸定歴史館と静岡市美術館で徳川慶喜展が同時開催されています。歴史館と美術館の両方のアプローチで徳川慶喜に迫る企画とのこと。2013年11月2日から12月15日まで開催されている静岡市美術館の展示を見てきました。
◆静岡市美術館
http://www.shizubi.jp/
◆ 松戸市戸定歴史館
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/organization/tojyo.html
静岡市美術館の入口
歴史資料の価値は時代考証の材料になる点にあると思います。美術品にも美術史上の価値がありますので、その意味で歴史資料です。美術品においては、美しいか否かを含む様々な美的範疇を価値判断の基準におくと考えるものです。そうでなければ、逸品を後世へ伝えようという初動が起こらない。ですが、時間の経過とともに、美的価値だけでなく歴史的価値が付加されていく。
こう考えると、そもそも美術と歴史は切っても切れない関係にあります。美術展で作品背景となる歴史は頻繁に参照されるし、歴史展においても美術品が扱われることは多々あるはず。英語のmuseumと言えば、美術館も歴史館も含みます。では、徳川慶喜展のどこが新鮮なのか。これまでも幾度となく繰り返されてきたジャンル横断型の展示を装った凡庸な企画展にすぎないのでしょうか。
ぼくはおもしろいと思ったのですが、その理由は、徳川慶喜の人に焦点が当たっていること、そしてこの人があまりにも特異な、それだけに大きい人生を生きたことにあります。二つをわけて考えてみたい。
まず人に焦点が当たっていることについて。
歴史館の視点から言えば、人に焦点が当たることは珍しくも何ともない。歴史的偉人の紹介展示はよくあります。ですが、美術館において人に焦点が当たることは例外的。美術館ではあくまで作品ありきの人であり、人そのものへ想像力を広げるよう促すような展示をあまりしない。作品を通して、作家の作風の変遷や特徴、歴史的意義を鑑賞する、というのが美術館のお題目。作品に寄り添う。その意味で、徳川慶喜展は、美術館が歴史館的になっていた。
それだけでは消極的な肯定意見です。だって、それなら歴史館へ行けばいいじゃないかと言われかねない。美術館で歴史館的展示をする必要があるのかと。しかし、違いもあるのです。
一つは、美術史的背景を提示し、鑑賞の参照軸を広げること。歴史館の展示だけではこうはならなかったと思うのは、少量ではありますが、美術史上の一級品を展示しているから。日本の洋画の代表的作品と言える高橋由一の《美人(花魁)》、川上冬崖や島霞谷の小品など。明治期に入り、洋画を描く慶喜に絡めて、当時の画壇の状況を伺い知ることができるようになっている。この工夫のおかげで、単線的で教科書的な、つまり歴史的によく知られた徳川慶喜像に補助線が入る仕掛けになっている。
二つは、美術館が得意とする空間展示です。美術館では、鑑賞者が作品から受け取る効果を計算し、展示空間にこだわります。この傾向は鑑賞者へ考えることを促す現代の美術作品に顕著です。明治時代の慶喜は自らカメラを持って写真撮影をしています。慶喜が撮影した写真がたくさん残っており、展示されているのですが、その空間のつくり方は美術館的。考えてもみてください。慶喜が撮影したから大事に残されている写真。写真としての美的価値は定かではありません。こういった写真を通して鑑賞者へ何事かを見せるためにはそれ相応の空間が必要です。
上記二つの点に、美術館による人に焦点を当てた歴史館的展示の美術館らしさがあります。この効果が歴史館的展示と合わさることで、主題となる徳川慶喜像をより複雑に描き出していました。
おもしろいと思った理由の二つ目。慶喜があまりにも特異な、それだけに大きい人生を生きたことについて。
この点は、すでに書いた美術館による歴史館的展示の特徴から得られた鑑賞効果の内実です。徳川慶喜像が鑑賞者の中にどのように浮かび上がったかということ。
徳川慶喜は多くの歴史家の興味を引きつけてきました。ぼくの慶喜についての知識は松浦玲著『徳川慶喜 将軍家の明治維新』(中公新書)によっています。また80年代終わりから90年代にかけて慶喜撮影の写真を扱った本が刊行されたり、展覧会が行われたりしてきました。その成果は見ていないのでわかりませんが、今回の展示がそれらを踏まえていることは確かです。なぜなら同時開催地の松戸市戸定歴史館が「将軍のフォトグラフィー」という展覧会を1992年に開催しているからです。
想像するに、それらの先駆的仕事と今回が違うのは、徳川慶喜の人生をまるごと感じさせるような歴史的経過を含んでいる点でしょう。それはそのまま日本の近代化の途上と歩調を合わせている。
言うまでもなく、慶喜は、鎌倉時代から続く武家政権を終らせた人物です。江戸時代、徳川家最後の将軍にとどまらず、日本史上最後の征夷大将軍。源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年、慶喜による大政奉還が1867年。実に700年近く続いた武家による幕府政治の終わりを、慶喜が担うことになった。
彼は幼い頃から英明と評判でした。水戸藩主徳川斉昭の子として生まれ、その英明から徳川御三家のうち将軍家であった一橋家へ養子に入っている。尊王攘夷派および近代の国家神道の精神的土壌を生み出したと言われる水戸学派の只中で育った逸材。何が言いたいかと言うと、幕末動乱期の中心的人物なわけです。義理父となった江戸幕府12代将軍家慶、敵対した13代将軍家定、後見職を務めた14代将軍家茂まで、当然ですが、近くにいて、その眼で見ている。この間にはペリー来航や安政の大獄などが起こる。その後、禁裏守衛総督(京都の守衛責任者)や15代将軍になっても、政治の中心ですったもんだを繰り返す。教科書に大文字で書かれるトピックを地で生き、水戸の血を継ぐ者という周囲の視線の中、台風の眼であり続けた。
その彼が朝廷へ政権を渡してからは、つまり、明治時代へ入ってからは、早過ぎる余生を生きるように、絵を描き、カメラを手に持つ。水戸藩主であった弟の昭武が撮影した慶喜の後姿の写真があります。松戸市の川原、何やら大きな荷物をひかえ、仕事をしているようにも見える少年たちを、地べたに腰掛けて撮影する後姿。幕末に先代の将軍や老中たちを見てきた同じ眼が、川原に立つ何者でもない少年を見ている。同じ場所で慶喜が撮影した写真では、少年がカメラをしっかりとまなざしている。知ってか知らずか、カメラのレンズの先にある日本史上最後の征夷大将軍の眼をなかば睨むように見ている。慶喜撮影の写真の被写体は、農民や女中、橋や寺、機関車など、何でもない人や物、風景ばかりです。
こういう写真に囲まれると、歴史の変動が生んだあまりに特異な、それだけに大きい人生の片鱗を見てしまう。特異というのは、近代への転換をこんなに具体的な後姿によって象徴した人はいないこと。最後の征夷大将軍という歴史的役職が一人の小さい人間の背中へ変転している。それだけに大きいというのは、そのような転落を通して現在の日本の基礎をつくったという意味で全ての日本国民へ開かれていること。今や世の中の主役はカメラのレンズを見返す何者でもない人、その背後に広がる何でもない風景。かつての征夷大将軍は幽霊のように生きている。文人として生きる慶喜像の内実です。
美術館の歴史館的展示と言えば、エジプト文明とかインカの秘宝とか、人類の古代へさかのぼる大規模展は多いです。そんな中、自国日本の歴史、しかも現在の根っこへ直接的につながる歴史に主眼を置いた徳川慶喜展。物量もかなりあるので時間をかけて鑑賞することをおすすめします。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆静岡市美術館
http://www.shizubi.jp/
◆ 松戸市戸定歴史館
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/organization/tojyo.html
静岡市美術館の入口
歴史資料の価値は時代考証の材料になる点にあると思います。美術品にも美術史上の価値がありますので、その意味で歴史資料です。美術品においては、美しいか否かを含む様々な美的範疇を価値判断の基準におくと考えるものです。そうでなければ、逸品を後世へ伝えようという初動が起こらない。ですが、時間の経過とともに、美的価値だけでなく歴史的価値が付加されていく。
こう考えると、そもそも美術と歴史は切っても切れない関係にあります。美術展で作品背景となる歴史は頻繁に参照されるし、歴史展においても美術品が扱われることは多々あるはず。英語のmuseumと言えば、美術館も歴史館も含みます。では、徳川慶喜展のどこが新鮮なのか。これまでも幾度となく繰り返されてきたジャンル横断型の展示を装った凡庸な企画展にすぎないのでしょうか。
ぼくはおもしろいと思ったのですが、その理由は、徳川慶喜の人に焦点が当たっていること、そしてこの人があまりにも特異な、それだけに大きい人生を生きたことにあります。二つをわけて考えてみたい。
まず人に焦点が当たっていることについて。
歴史館の視点から言えば、人に焦点が当たることは珍しくも何ともない。歴史的偉人の紹介展示はよくあります。ですが、美術館において人に焦点が当たることは例外的。美術館ではあくまで作品ありきの人であり、人そのものへ想像力を広げるよう促すような展示をあまりしない。作品を通して、作家の作風の変遷や特徴、歴史的意義を鑑賞する、というのが美術館のお題目。作品に寄り添う。その意味で、徳川慶喜展は、美術館が歴史館的になっていた。
それだけでは消極的な肯定意見です。だって、それなら歴史館へ行けばいいじゃないかと言われかねない。美術館で歴史館的展示をする必要があるのかと。しかし、違いもあるのです。
一つは、美術史的背景を提示し、鑑賞の参照軸を広げること。歴史館の展示だけではこうはならなかったと思うのは、少量ではありますが、美術史上の一級品を展示しているから。日本の洋画の代表的作品と言える高橋由一の《美人(花魁)》、川上冬崖や島霞谷の小品など。明治期に入り、洋画を描く慶喜に絡めて、当時の画壇の状況を伺い知ることができるようになっている。この工夫のおかげで、単線的で教科書的な、つまり歴史的によく知られた徳川慶喜像に補助線が入る仕掛けになっている。
二つは、美術館が得意とする空間展示です。美術館では、鑑賞者が作品から受け取る効果を計算し、展示空間にこだわります。この傾向は鑑賞者へ考えることを促す現代の美術作品に顕著です。明治時代の慶喜は自らカメラを持って写真撮影をしています。慶喜が撮影した写真がたくさん残っており、展示されているのですが、その空間のつくり方は美術館的。考えてもみてください。慶喜が撮影したから大事に残されている写真。写真としての美的価値は定かではありません。こういった写真を通して鑑賞者へ何事かを見せるためにはそれ相応の空間が必要です。
上記二つの点に、美術館による人に焦点を当てた歴史館的展示の美術館らしさがあります。この効果が歴史館的展示と合わさることで、主題となる徳川慶喜像をより複雑に描き出していました。
おもしろいと思った理由の二つ目。慶喜があまりにも特異な、それだけに大きい人生を生きたことについて。
この点は、すでに書いた美術館による歴史館的展示の特徴から得られた鑑賞効果の内実です。徳川慶喜像が鑑賞者の中にどのように浮かび上がったかということ。
徳川慶喜は多くの歴史家の興味を引きつけてきました。ぼくの慶喜についての知識は松浦玲著『徳川慶喜 将軍家の明治維新』(中公新書)によっています。また80年代終わりから90年代にかけて慶喜撮影の写真を扱った本が刊行されたり、展覧会が行われたりしてきました。その成果は見ていないのでわかりませんが、今回の展示がそれらを踏まえていることは確かです。なぜなら同時開催地の松戸市戸定歴史館が「将軍のフォトグラフィー」という展覧会を1992年に開催しているからです。
想像するに、それらの先駆的仕事と今回が違うのは、徳川慶喜の人生をまるごと感じさせるような歴史的経過を含んでいる点でしょう。それはそのまま日本の近代化の途上と歩調を合わせている。
言うまでもなく、慶喜は、鎌倉時代から続く武家政権を終らせた人物です。江戸時代、徳川家最後の将軍にとどまらず、日本史上最後の征夷大将軍。源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年、慶喜による大政奉還が1867年。実に700年近く続いた武家による幕府政治の終わりを、慶喜が担うことになった。
彼は幼い頃から英明と評判でした。水戸藩主徳川斉昭の子として生まれ、その英明から徳川御三家のうち将軍家であった一橋家へ養子に入っている。尊王攘夷派および近代の国家神道の精神的土壌を生み出したと言われる水戸学派の只中で育った逸材。何が言いたいかと言うと、幕末動乱期の中心的人物なわけです。義理父となった江戸幕府12代将軍家慶、敵対した13代将軍家定、後見職を務めた14代将軍家茂まで、当然ですが、近くにいて、その眼で見ている。この間にはペリー来航や安政の大獄などが起こる。その後、禁裏守衛総督(京都の守衛責任者)や15代将軍になっても、政治の中心ですったもんだを繰り返す。教科書に大文字で書かれるトピックを地で生き、水戸の血を継ぐ者という周囲の視線の中、台風の眼であり続けた。
その彼が朝廷へ政権を渡してからは、つまり、明治時代へ入ってからは、早過ぎる余生を生きるように、絵を描き、カメラを手に持つ。水戸藩主であった弟の昭武が撮影した慶喜の後姿の写真があります。松戸市の川原、何やら大きな荷物をひかえ、仕事をしているようにも見える少年たちを、地べたに腰掛けて撮影する後姿。幕末に先代の将軍や老中たちを見てきた同じ眼が、川原に立つ何者でもない少年を見ている。同じ場所で慶喜が撮影した写真では、少年がカメラをしっかりとまなざしている。知ってか知らずか、カメラのレンズの先にある日本史上最後の征夷大将軍の眼をなかば睨むように見ている。慶喜撮影の写真の被写体は、農民や女中、橋や寺、機関車など、何でもない人や物、風景ばかりです。
こういう写真に囲まれると、歴史の変動が生んだあまりに特異な、それだけに大きい人生の片鱗を見てしまう。特異というのは、近代への転換をこんなに具体的な後姿によって象徴した人はいないこと。最後の征夷大将軍という歴史的役職が一人の小さい人間の背中へ変転している。それだけに大きいというのは、そのような転落を通して現在の日本の基礎をつくったという意味で全ての日本国民へ開かれていること。今や世の中の主役はカメラのレンズを見返す何者でもない人、その背後に広がる何でもない風景。かつての征夷大将軍は幽霊のように生きている。文人として生きる慶喜像の内実です。
美術館の歴史館的展示と言えば、エジプト文明とかインカの秘宝とか、人類の古代へさかのぼる大規模展は多いです。そんな中、自国日本の歴史、しかも現在の根っこへ直接的につながる歴史に主眼を置いた徳川慶喜展。物量もかなりあるので時間をかけて鑑賞することをおすすめします。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00