2013年10月17日
第19回 スモールアートワールド
2013年10月5日、ぼくが編集代表をしているDARA DA MONDEの発行元オルタナティブスペース・スノドカフェ運営のギャラリーがオープンしました。名前はUDONOS(ウドノス)。スノドカフェから歩いて1分とかからない場所にあります。住所は静岡市清水区上原ですが、ここは日本平、有度山の麓に位置しています。UDONOSは「有度の巣」の意らしい。
◆オルタナティブスペース・スノドカフェのサイトよりUDONOSの紹介
http://www.sndcafe.net/event/2013/10/exhibition001.html
オーナーの柚木康裕さんによれば、地元のアーティストに発表の場を提供したり、企画展示を行ったりしていきたいとのこと。スノドカフェが活発な活動の場になっている中、新しいギャラリーがどのように展開されていくのか楽しみです。
UDONOSの外観
オープニングパーティの様子
今年5月には同じく清水区内でSUN(サン)というギャラリーがオープンしています。こちらは元美術講師の鈴木茂明さんが自宅の1階をまるごとギャラリーにした場所。住宅の玄関からインターホンを鳴らしてお邪魔するので、知人の家に遊びに行くような不思議な感覚になるギャラリーです。
清水区にギャラリーが増えているのはおもしろい現象です。UDONOSにしてもSUNにしても、オーナーが美術へ思い入れを持ち、自主的に運営できる場所を確保するという点は同じです。
芸術活動は作品をどのように世の中へ問うのかという観点を抜きにできません。作品発表をする場を確保しなくてはいけないし、展示を通して発表空間を編集する作業が必要になります。もっと積極的に考えれば、そこで作品を販売して生計を立てたり、芸術を組織するコーディネーターとコネクションをつくり活躍の場を広げたり、そんなことが活動の継続にはとても大切です。
多くの場合、芸術家だけではこういった営みは不可能です。ですから、企画を立てたり、発表場所を提供したり、販売したり営業したり、言ってみれば、普通の会社と同じような営みが芸術の自律性を支えています。(普通の会社と違うのは、芸術の中にはどう考えても利益を生むことができず、それでも価値が認められる分野があるということです。その場合は税金を投入し、創作や保存を維持します。)
こう考えると、静岡市くらいの規模の自治体では狭い意味でのアートワールド(芸術関係者が織りなすネットワークの総体)が成立しにくい。都市になればなるほど人口が増えますから、芸術活動の節々で必要になる役割を担う人材がいるわけです。人口が少なければ当然こういった人材は不足する。
ならばなぜ、人口増加の兆しがあるわけでもない静岡市清水区で、ギャラリー運営を始める人が出てくるのか。かなり挑戦的な試みと思います。
ぼくの仮説はこういうものです。
グローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義の間に乖離が起こっているとすれば、その歪みを感じやすいのは間違いなく地方都市でしょう。グローバル資本主義の恩恵を受けやすい大都市では不満が溜まりにくいですし、不満を解消してくれるフックも多分に用意されている。これが地方都市になるとそうはいかない。静岡市は他の地方都市に比べれば元気な方で経済的に決定的な行き詰まりを見せているわけではありませんが、それでも上記の乖離を実感している人たちがいる。
こういう社会背景を置くと、文化芸術は資本主義と民主主義の間の緩衝剤のようなものです。両者の摩擦から生じる不満を、文化芸術にまつわるネットワークが回収し、無効にするのです。これにはいい面も悪い面もあります。不満を解消するという限りで精神衛生上いいですが、根本的な社会の歪みに向き合わないよう人々を組織するという意味で悪いです。(少なくとも現実の活動を見るかぎり、そういう芸術活動が多いです。)
この仮説の上に、清水区にギャラリーができているという現実を加えると、積極的な意義を見出すことができます。資本主義と民主主義の間で、どちらにも寄与するような形を目指すことです。
資本主義以外の可能性を考えたい気持ちもありますが、それはあまりに大きい課題なのでひとまず置きます。まずは適切な規模の市場経済を企画することが必要なのではないかと思います。その均衡点はグローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義が乖離しない点になるのではないかと思うのです。この均衡点を探ることが、文化芸術の課題ではないかと思います。
と言って、文化芸術ですから、経済理論を駆使してこれを探るわけではない。何を基礎に探るかと言えば、感性です。感性で均衡点を身につけるような、そういうことができるのではないかと、ぶっとんだ意見に聞こえるかもしれませんが、そんなことをぼくは考えています。
感性は長らく不安定で曖昧なものだと思われてきました。五感をもとに判断すればとかく快楽を追求する形になりがちです。しかし感性には精神的営みも含まれています。良識に根差した感性のあり方があるはずだし、この軸が定まれば、資本主義と民主主義の均衡点をはかることもできるのではないかと思うのです。
もっとも日本の場合、空気を察知する能力が感性と言い換えられることがあります。これには要注意です。単に空気を察知する能力ではない、良識に基づいた感性のあり方を醸成する場がありうる。こう言えば、そんなにぶっとんだ意見でもないでしょう。
経済的に成長が約束されているわけでもない土地で、自主的なギャラリー運営が増加している背景には、こういった時代精神への嗅覚があると思う、という話でした。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆オルタナティブスペース・スノドカフェのサイトよりUDONOSの紹介
http://www.sndcafe.net/event/2013/10/exhibition001.html
オーナーの柚木康裕さんによれば、地元のアーティストに発表の場を提供したり、企画展示を行ったりしていきたいとのこと。スノドカフェが活発な活動の場になっている中、新しいギャラリーがどのように展開されていくのか楽しみです。
UDONOSの外観
オープニングパーティの様子
今年5月には同じく清水区内でSUN(サン)というギャラリーがオープンしています。こちらは元美術講師の鈴木茂明さんが自宅の1階をまるごとギャラリーにした場所。住宅の玄関からインターホンを鳴らしてお邪魔するので、知人の家に遊びに行くような不思議な感覚になるギャラリーです。
清水区にギャラリーが増えているのはおもしろい現象です。UDONOSにしてもSUNにしても、オーナーが美術へ思い入れを持ち、自主的に運営できる場所を確保するという点は同じです。
芸術活動は作品をどのように世の中へ問うのかという観点を抜きにできません。作品発表をする場を確保しなくてはいけないし、展示を通して発表空間を編集する作業が必要になります。もっと積極的に考えれば、そこで作品を販売して生計を立てたり、芸術を組織するコーディネーターとコネクションをつくり活躍の場を広げたり、そんなことが活動の継続にはとても大切です。
多くの場合、芸術家だけではこういった営みは不可能です。ですから、企画を立てたり、発表場所を提供したり、販売したり営業したり、言ってみれば、普通の会社と同じような営みが芸術の自律性を支えています。(普通の会社と違うのは、芸術の中にはどう考えても利益を生むことができず、それでも価値が認められる分野があるということです。その場合は税金を投入し、創作や保存を維持します。)
こう考えると、静岡市くらいの規模の自治体では狭い意味でのアートワールド(芸術関係者が織りなすネットワークの総体)が成立しにくい。都市になればなるほど人口が増えますから、芸術活動の節々で必要になる役割を担う人材がいるわけです。人口が少なければ当然こういった人材は不足する。
ならばなぜ、人口増加の兆しがあるわけでもない静岡市清水区で、ギャラリー運営を始める人が出てくるのか。かなり挑戦的な試みと思います。
ぼくの仮説はこういうものです。
グローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義の間に乖離が起こっているとすれば、その歪みを感じやすいのは間違いなく地方都市でしょう。グローバル資本主義の恩恵を受けやすい大都市では不満が溜まりにくいですし、不満を解消してくれるフックも多分に用意されている。これが地方都市になるとそうはいかない。静岡市は他の地方都市に比べれば元気な方で経済的に決定的な行き詰まりを見せているわけではありませんが、それでも上記の乖離を実感している人たちがいる。
こういう社会背景を置くと、文化芸術は資本主義と民主主義の間の緩衝剤のようなものです。両者の摩擦から生じる不満を、文化芸術にまつわるネットワークが回収し、無効にするのです。これにはいい面も悪い面もあります。不満を解消するという限りで精神衛生上いいですが、根本的な社会の歪みに向き合わないよう人々を組織するという意味で悪いです。(少なくとも現実の活動を見るかぎり、そういう芸術活動が多いです。)
この仮説の上に、清水区にギャラリーができているという現実を加えると、積極的な意義を見出すことができます。資本主義と民主主義の間で、どちらにも寄与するような形を目指すことです。
資本主義以外の可能性を考えたい気持ちもありますが、それはあまりに大きい課題なのでひとまず置きます。まずは適切な規模の市場経済を企画することが必要なのではないかと思います。その均衡点はグローバル資本主義と自主自律を旨とする民主主義が乖離しない点になるのではないかと思うのです。この均衡点を探ることが、文化芸術の課題ではないかと思います。
と言って、文化芸術ですから、経済理論を駆使してこれを探るわけではない。何を基礎に探るかと言えば、感性です。感性で均衡点を身につけるような、そういうことができるのではないかと、ぶっとんだ意見に聞こえるかもしれませんが、そんなことをぼくは考えています。
感性は長らく不安定で曖昧なものだと思われてきました。五感をもとに判断すればとかく快楽を追求する形になりがちです。しかし感性には精神的営みも含まれています。良識に根差した感性のあり方があるはずだし、この軸が定まれば、資本主義と民主主義の均衡点をはかることもできるのではないかと思うのです。
もっとも日本の場合、空気を察知する能力が感性と言い換えられることがあります。これには要注意です。単に空気を察知する能力ではない、良識に基づいた感性のあり方を醸成する場がありうる。こう言えば、そんなにぶっとんだ意見でもないでしょう。
経済的に成長が約束されているわけでもない土地で、自主的なギャラリー運営が増加している背景には、こういった時代精神への嗅覚があると思う、という話でした。
今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00