2013年05月30日
第10回 清水駅前画塾の佐藤滋さん
清水駅前銀座商店街をたまに散歩します。タイル貼りの広々とした歩道、風格のある大きいアーケード。昔日の名残りでしょうか。商店街のつくりは立派です。歩くのも気持ちいい。JR清水駅周辺が再開発で整備されていますが、取り残されたような駅前銀座の人通りは、休日に行っても、あまりない。チェーンの居酒屋や個人経営の飲食店など、新しい店がちらほら。繁盛している店もあるらしい。ぼくの場合、寂れた感じを含めて楽しんでいるのも事実で、古い店舗看板の意匠がおもしろかったりする。シャッターの下りた店舗が目立つし、時間が止まったような非流行店もある。
清水駅前銀座に、絵画教室の看板を見つけたのは昨年でした。その後、今年3月16日に浜松市鴨江別館で開催された静岡県主催のシンポジウム「ささえるワールドカフェinふじのくに」で、清水の商店街で絵画教室を始めたと自己紹介した方が登壇者に質問していました。清水の商店街が寂しくなって、何かしたいという気持ちがあり、画塾を始めた、と言っていた。もしかしたら、あの絵画教室かな、と思いつつ、そのときはそれきり。
先日、ふと思い出して、駅前銀座の絵画教室を探し、電話をすると、電話口から、あのシンポジウム、行きましたよ、と。静岡美術造形学院 清水駅前画塾の塾長・佐藤滋さんでした。
佐藤さんは千葉県の生まれで、藤枝明誠高校を卒業後、武蔵野美術大学で彫刻を専攻。大学院は東京芸術大学へ進み、文化財の修復作業を学びました。自然や歴史的建造物を保護するイギリスの団体ナショナルトラストが所有するクリブデンガーデン内にある石像彫刻修復工房でアルバイトをしたり、静岡県埋蔵文化財調査研究所で文化財修復に携わったり。現場経験も豊富な佐藤さんですが、現在は美術講師として、中学高校や画塾で教鞭をとっています。
制作途中の彌勒菩薩を手にとる佐藤さん
イギリスで修復作業をしていた頃の写真
静岡美術造形学院の運営母体は、静岡市清水区で学習塾を展開するふくろうの森。このオーナー・石嶌之広さんが、佐藤さんの提案を快諾し、清水駅前銀座に画塾を開くことになりました。実際の指導は佐藤さんが担当しています。美術大学進学向けの講座もあれば、大人や子どもが気軽に参加できる講座もあります。
授業風景
佐藤さんは日本社会の芸術の位置づけに不満を抱いているようでした。文化財修復の仕事をしていた頃から、時間をかけて培った技術が安く使われてしまう状況に行き当たったと言います。事業縮小で真っ先に契約をきられるのは、修復現場で働く専門性の高い技術職、佐藤さんのような立場でした。また、中学や高校で授業を持つ経験から、学校教育の美術のあり方にも違和感を持っていると言います。美術がまるで付録か何かのような扱い、添え物になっていると。
佐藤さんいわく、美術は想像力に関わる。集中することで、精神を解放する効果もある。受験勉強ばかりやっていても、物事を新しく発想し、アイディアを現実的に構築する力にはならないのでは。絵を描くことで、そんな力を引き出すことができればいい。それは生きる力になると思う。
佐藤さんは、淡々と、しかし力強く話します。自身も彫刻家として制作を続けてきました。その実践者としての感覚が言葉になっているようです。
社会の中の芸術関係者の位置づけは決してよいものではないと、ぼくも思います。専門性の高い仕事であるはずなのに(それだけに時間をかけて身につけた知識や技術であるはずなのに)、雇用契約の内容が軽んじられていることは少なくありません。一例ですが、公立劇場の雇用状況について、岐阜県可児市文化創造センターの館長で演劇評論家の衛紀生さんが警笛を鳴らしています。
◆可児市文化創造センター 館長の部屋より
「「時限爆弾」を抱え込んでいる公立劇場・ホール」
http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_151.html
生活の基盤が整わないと、芸術の制作や、それらをサポートする活動も、心おきなく行えるものにならない。芸術やデザインといった専門職が軽んじられる背景には、社会的認識が固まっていないということがあるでしょう。
こういうことを話すときに、すぐに出る反論は、いや、芸術はすぐにお金を生まない。そういう仕事をするのに、待遇がよいわけがない、というものです。
すぐにお金を生まないという指摘は一面の真実であるにしても、新しい価値を生み出すのが芸術だという側面も真実だと思います。芸術には若い感性が如実に入り込んできます。その時代の制約や自由も、そこに読み取ることができる。こういったメディア、芸術というメディアを活用しない手はないと思うんです。新しい価値を求めなくなった社会に、神や信仰、土着の習俗を失った現代人が、果たして耐えられるでしょうか。
その観点から、ぼくは芸術の方が社会を支えていると思っているし、芸術がない社会なんて考えられない。芸術を脇においた社会や教育のあり方は、人間の存在を希薄に考えているのではないかと思います。
芸術、と言うと、なんだか堅いイメージを持たれるかも。でも、ここでぼくが言う芸術は、ありとあらゆる創作物です。ノートの落書き、カラオケ、漫画、てるてるぼうず、神社の絵馬……娯楽、遊び、祈り、願いに関わるあらゆることを含みます。これらが多様に溢れる社会を維持するためには、おそらく放っておくだけでは駄目で、新しい価値を創造する営みを支えていくことが必要なのだと思います。
佐藤さんは、清水駅前銀座の今後にも強い感心を持っています。画塾にクリエイター気質の若者がもっと集まれば、商店街の空き店舗を利用して、新しい展開ができるかもしれない、と意欲を見せます。聞くところによると、商店街の中に、持ち主の売る気のない空き店舗が約20もあるのだとか。せっかくよい立地にあり、立派なつくりの商店街。活用次第でおもしろい展開がありえそうです。画塾に大学から講師を招いたり、海外との交流を促したり、と意欲的な試みを続ける佐藤さん。今後の活動が楽しみです。
では、今回は、このへんで。ごきげんよう。
清水駅前銀座に、絵画教室の看板を見つけたのは昨年でした。その後、今年3月16日に浜松市鴨江別館で開催された静岡県主催のシンポジウム「ささえるワールドカフェinふじのくに」で、清水の商店街で絵画教室を始めたと自己紹介した方が登壇者に質問していました。清水の商店街が寂しくなって、何かしたいという気持ちがあり、画塾を始めた、と言っていた。もしかしたら、あの絵画教室かな、と思いつつ、そのときはそれきり。
先日、ふと思い出して、駅前銀座の絵画教室を探し、電話をすると、電話口から、あのシンポジウム、行きましたよ、と。静岡美術造形学院 清水駅前画塾の塾長・佐藤滋さんでした。
佐藤さんは千葉県の生まれで、藤枝明誠高校を卒業後、武蔵野美術大学で彫刻を専攻。大学院は東京芸術大学へ進み、文化財の修復作業を学びました。自然や歴史的建造物を保護するイギリスの団体ナショナルトラストが所有するクリブデンガーデン内にある石像彫刻修復工房でアルバイトをしたり、静岡県埋蔵文化財調査研究所で文化財修復に携わったり。現場経験も豊富な佐藤さんですが、現在は美術講師として、中学高校や画塾で教鞭をとっています。
制作途中の彌勒菩薩を手にとる佐藤さん
イギリスで修復作業をしていた頃の写真
静岡美術造形学院の運営母体は、静岡市清水区で学習塾を展開するふくろうの森。このオーナー・石嶌之広さんが、佐藤さんの提案を快諾し、清水駅前銀座に画塾を開くことになりました。実際の指導は佐藤さんが担当しています。美術大学進学向けの講座もあれば、大人や子どもが気軽に参加できる講座もあります。
授業風景
佐藤さんは日本社会の芸術の位置づけに不満を抱いているようでした。文化財修復の仕事をしていた頃から、時間をかけて培った技術が安く使われてしまう状況に行き当たったと言います。事業縮小で真っ先に契約をきられるのは、修復現場で働く専門性の高い技術職、佐藤さんのような立場でした。また、中学や高校で授業を持つ経験から、学校教育の美術のあり方にも違和感を持っていると言います。美術がまるで付録か何かのような扱い、添え物になっていると。
佐藤さんいわく、美術は想像力に関わる。集中することで、精神を解放する効果もある。受験勉強ばかりやっていても、物事を新しく発想し、アイディアを現実的に構築する力にはならないのでは。絵を描くことで、そんな力を引き出すことができればいい。それは生きる力になると思う。
佐藤さんは、淡々と、しかし力強く話します。自身も彫刻家として制作を続けてきました。その実践者としての感覚が言葉になっているようです。
社会の中の芸術関係者の位置づけは決してよいものではないと、ぼくも思います。専門性の高い仕事であるはずなのに(それだけに時間をかけて身につけた知識や技術であるはずなのに)、雇用契約の内容が軽んじられていることは少なくありません。一例ですが、公立劇場の雇用状況について、岐阜県可児市文化創造センターの館長で演劇評論家の衛紀生さんが警笛を鳴らしています。
◆可児市文化創造センター 館長の部屋より
「「時限爆弾」を抱え込んでいる公立劇場・ホール」
http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_151.html
生活の基盤が整わないと、芸術の制作や、それらをサポートする活動も、心おきなく行えるものにならない。芸術やデザインといった専門職が軽んじられる背景には、社会的認識が固まっていないということがあるでしょう。
こういうことを話すときに、すぐに出る反論は、いや、芸術はすぐにお金を生まない。そういう仕事をするのに、待遇がよいわけがない、というものです。
すぐにお金を生まないという指摘は一面の真実であるにしても、新しい価値を生み出すのが芸術だという側面も真実だと思います。芸術には若い感性が如実に入り込んできます。その時代の制約や自由も、そこに読み取ることができる。こういったメディア、芸術というメディアを活用しない手はないと思うんです。新しい価値を求めなくなった社会に、神や信仰、土着の習俗を失った現代人が、果たして耐えられるでしょうか。
その観点から、ぼくは芸術の方が社会を支えていると思っているし、芸術がない社会なんて考えられない。芸術を脇においた社会や教育のあり方は、人間の存在を希薄に考えているのではないかと思います。
芸術、と言うと、なんだか堅いイメージを持たれるかも。でも、ここでぼくが言う芸術は、ありとあらゆる創作物です。ノートの落書き、カラオケ、漫画、てるてるぼうず、神社の絵馬……娯楽、遊び、祈り、願いに関わるあらゆることを含みます。これらが多様に溢れる社会を維持するためには、おそらく放っておくだけでは駄目で、新しい価値を創造する営みを支えていくことが必要なのだと思います。
佐藤さんは、清水駅前銀座の今後にも強い感心を持っています。画塾にクリエイター気質の若者がもっと集まれば、商店街の空き店舗を利用して、新しい展開ができるかもしれない、と意欲を見せます。聞くところによると、商店街の中に、持ち主の売る気のない空き店舗が約20もあるのだとか。せっかくよい立地にあり、立派なつくりの商店街。活用次第でおもしろい展開がありえそうです。画塾に大学から講師を招いたり、海外との交流を促したり、と意欲的な試みを続ける佐藤さん。今後の活動が楽しみです。
では、今回は、このへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00