2013年07月25日
第14回 見たくないものを見る視線
静岡市葵区両替町の繁華街の悪質客引きを一斉摘発したというニュースがありました。6月28日のことです。静岡中央署、県警生活経済課、保安課、機動隊など約100人が動員されたのだそうです。その手がらは何かと言えば、電波法違反による9人の摘発と違法無線機9台の押収でした。ニュースを見たとき、変なニュースだと思いました。通信妨害の摘発にこれだけの人数を動員する必要があるでしょうか。客引きの隆盛を牽制したかったのかなと思いましたが、それにしても大袈裟です。迷惑行為条例違反の摘発ではないというのがよくわからない。裏に何かあると予想したのでしょうか。
◆アットエス「悪質客引き一斉摘発 静岡市葵区繁華街」
http://www.at-s.com/news/detail/696034055.html
警察には権力があります。市民に代わって犯罪や暴力を取り締まることができる。このおかげで安全な生活を維持できる。ですが、犯罪や暴力の匂いに過剰に敏感になるのはどうでしょう。最近、警察官の犯罪事件をよく耳にするのですが、過度な社会正義が警察官自身にとって抑圧になるということを思います。それを後押しする民意もある。社会に蔓延するクリーンへの欲望、ヒステリーのような潔癖性は、健全とは思えません。犯罪をよいと言っているわけではない。何もないところに幻影のように悪を見出す視線を問いたいと思うんです。悪をつくり出して、それを一掃する、そんな茶番劇が繰り返される社会なんて嫌でしょう。バッドエンターテインメントです。
今回は、ありえだなおさんという美術家を紹介します。DARA DA MONDE第2号に「すきよ 再生くん!」という漫画を描いてくれました。静岡大学大学院に所属し、普段は絵画を中心に創作活動をしています。先にいくつか作品の写真を掲載します。

巨大ポッキー箱の隅々にエロティックな少女

風俗店の広告、漫画、子どものおもちゃのコラージュ

少女の顔と性器が一体となった絵画

神様に見立てた顔の上をゴキブリや鼠が這う
ありえださんの作品には、性のイメージが充満しています。社会の中で消費される性のイメージです。執拗にこうした要素を描いているので、その執着はどこから来るのだろうと思います。実際に作品を見ると、不安な気持ちを掻き立てられると同時に、全てを含み込んで肯定する混沌とした力強さがあります。
暴力的なほどの性のイメージを描き続けるには、体力がいるのではないかと思う。嫌なものを見続ける体力です。けれど、それらを暴露するように、作品の中に描き込んでいる。自身を成立させている価値観をその裏側から確かめるような描き方です。言い換えれば、受け入れられないものを受け入れるために描いている。その筆圧が画面を埋め尽くし、見る者の視線を弄びます。そこに絵のおもしろさがある。
そう感じながら、果たして、ここに描かれている性のイメージは、どのように作家の中にあるのだろう、と、やはり思います。悪をつくり出して、それを排除する、というバッドエンターテインメントのやり方ではないにしても、悪をつくり出して、それを受け入れる、という虚構の受容ではないかという疑問が湧く。
バッドエンターテインメントと虚構の受容。前者がスケープゴートならば、後者は受難です。どちらも宗教的な手段であり、体制と個人の維持のために行われます。前者が悪くて、後者はよい、という判断は取りにくい。虚構の扱い方に関わる問題です。虚構を設定し、その操作によって、何かを解決したように見せかけるからです。
芸術がこの次元からどう出ることができるか。芸術はそもそも虚構です。フィクションです。その枠組みの中で悪を設定してみても、いかようにもすることができる。それは当然でしょう。これが現実ならば端的に罪だし、そのぶん、シンプルです。
芸術と現実はきれいに切り分けられるものではありません。芸術の中の悪をどう操作しようが罪はない、と考える人もいるかもしれませんが、芸術が現実に与える影響がある。この境目に立つとき、芸術の中の虚構の操作に倫理が発生します。この種の倫理を外側から創作へ押しつけようとすると、表現の自由を狭める暴力になります。それはできない。倫理は作家の中に芽生えるものです。
人には見たくないものがあります。時に、見たくないものをつくり出しておかないと済まないような気持ちになります。それを排除しようが受け入れようが、そのことが価値観を支えてくれる気になる。しかし、むしろ注目すべきなのは、芸術が、悪を設定する枠組みを、その外側から見るメディアだということではないでしょうか。そもそもフィクションならば、いかようにも見てみることができる。枠組み自体の実験ができる。
ありえださんの作品にある性のイメージは、悪を設定する危うさを宿しています。それが魅力であり、性と悪を巡る問いを投げかけることが作品の力とも言えますが、個人的には、虚構の受容にとどまることなく、それを成立させている枠組みを見直す、そのような契機が、作品に内在することを期待します。
実は、ありえださんとは、DARA DA MONDE第2号の後も、一緒に漫画を制作しています。ぼくはストーリー展開等に協力する立場です。上記の芸術における倫理も含めて、絵画という空間にストーリーという時間が加わる漫画だからできる表現を追求しています。
最後に、ありえださんご本人の写真です。7月6日に行われたスノドカフェ(静岡市清水区)の星まつりでの様子。


手づくりポンチョに男性器と女性器のイメージ
では、今回はこのへんで。ごきげんよう。
◆アットエス「悪質客引き一斉摘発 静岡市葵区繁華街」
http://www.at-s.com/news/detail/696034055.html
警察には権力があります。市民に代わって犯罪や暴力を取り締まることができる。このおかげで安全な生活を維持できる。ですが、犯罪や暴力の匂いに過剰に敏感になるのはどうでしょう。最近、警察官の犯罪事件をよく耳にするのですが、過度な社会正義が警察官自身にとって抑圧になるということを思います。それを後押しする民意もある。社会に蔓延するクリーンへの欲望、ヒステリーのような潔癖性は、健全とは思えません。犯罪をよいと言っているわけではない。何もないところに幻影のように悪を見出す視線を問いたいと思うんです。悪をつくり出して、それを一掃する、そんな茶番劇が繰り返される社会なんて嫌でしょう。バッドエンターテインメントです。
今回は、ありえだなおさんという美術家を紹介します。DARA DA MONDE第2号に「すきよ 再生くん!」という漫画を描いてくれました。静岡大学大学院に所属し、普段は絵画を中心に創作活動をしています。先にいくつか作品の写真を掲載します。
巨大ポッキー箱の隅々にエロティックな少女
風俗店の広告、漫画、子どものおもちゃのコラージュ
少女の顔と性器が一体となった絵画
神様に見立てた顔の上をゴキブリや鼠が這う
ありえださんの作品には、性のイメージが充満しています。社会の中で消費される性のイメージです。執拗にこうした要素を描いているので、その執着はどこから来るのだろうと思います。実際に作品を見ると、不安な気持ちを掻き立てられると同時に、全てを含み込んで肯定する混沌とした力強さがあります。
暴力的なほどの性のイメージを描き続けるには、体力がいるのではないかと思う。嫌なものを見続ける体力です。けれど、それらを暴露するように、作品の中に描き込んでいる。自身を成立させている価値観をその裏側から確かめるような描き方です。言い換えれば、受け入れられないものを受け入れるために描いている。その筆圧が画面を埋め尽くし、見る者の視線を弄びます。そこに絵のおもしろさがある。
そう感じながら、果たして、ここに描かれている性のイメージは、どのように作家の中にあるのだろう、と、やはり思います。悪をつくり出して、それを排除する、というバッドエンターテインメントのやり方ではないにしても、悪をつくり出して、それを受け入れる、という虚構の受容ではないかという疑問が湧く。
バッドエンターテインメントと虚構の受容。前者がスケープゴートならば、後者は受難です。どちらも宗教的な手段であり、体制と個人の維持のために行われます。前者が悪くて、後者はよい、という判断は取りにくい。虚構の扱い方に関わる問題です。虚構を設定し、その操作によって、何かを解決したように見せかけるからです。
芸術がこの次元からどう出ることができるか。芸術はそもそも虚構です。フィクションです。その枠組みの中で悪を設定してみても、いかようにもすることができる。それは当然でしょう。これが現実ならば端的に罪だし、そのぶん、シンプルです。
芸術と現実はきれいに切り分けられるものではありません。芸術の中の悪をどう操作しようが罪はない、と考える人もいるかもしれませんが、芸術が現実に与える影響がある。この境目に立つとき、芸術の中の虚構の操作に倫理が発生します。この種の倫理を外側から創作へ押しつけようとすると、表現の自由を狭める暴力になります。それはできない。倫理は作家の中に芽生えるものです。
人には見たくないものがあります。時に、見たくないものをつくり出しておかないと済まないような気持ちになります。それを排除しようが受け入れようが、そのことが価値観を支えてくれる気になる。しかし、むしろ注目すべきなのは、芸術が、悪を設定する枠組みを、その外側から見るメディアだということではないでしょうか。そもそもフィクションならば、いかようにも見てみることができる。枠組み自体の実験ができる。
ありえださんの作品にある性のイメージは、悪を設定する危うさを宿しています。それが魅力であり、性と悪を巡る問いを投げかけることが作品の力とも言えますが、個人的には、虚構の受容にとどまることなく、それを成立させている枠組みを見直す、そのような契機が、作品に内在することを期待します。
実は、ありえださんとは、DARA DA MONDE第2号の後も、一緒に漫画を制作しています。ぼくはストーリー展開等に協力する立場です。上記の芸術における倫理も含めて、絵画という空間にストーリーという時間が加わる漫画だからできる表現を追求しています。
最後に、ありえださんご本人の写真です。7月6日に行われたスノドカフェ(静岡市清水区)の星まつりでの様子。
手づくりポンチョに男性器と女性器のイメージ
では、今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00