2013年01月31日
第2回 アトリエみるめに注目!
寒い日が続きますが、元気でお過ごしでしょうか?
麻生太郎副総理・財務相の発言が話題になっていますね。終末医療について「さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」などと言ったそうです。
◆朝日新聞デジタル
麻生太郎氏「さっさと死ねるように」終末医療巡る発言撤回(→リンク先を見る)
政治家の発言はどこまで意図的かわからないと思います。こういった発言をしておいて、国民の反応を見るという意図もあるのかも。失言を装ったリトマス試験紙みたいなものですね。尊厳死や自殺幇助の合法化を進める動きがあるのかもしれません。ぼくは人には死を選ぶ権利があると思っています。ただこれらを合法化したときに、悪用する人たちが出てくるのも容易に想像できます。例えば、臓器売買。お金儲けのために生命を扱う人がいるだろうと思うんです。もちろん生命を心底欲している人もいる。こういう事態をどう考えるか。麻生氏の発言に、仮に思想があったとしても、その思想が、人体までも商品と化す経済最優先の考え方を補強している可能性があるでしょう。そのことに気づいているなら、たちが悪い。
今回紹介するのは、静岡市駿河区寿町にある小劇場、アトリエみるめです。2013年1月19日と20日に「新春みるめショウ」というイベントが行われました。そこで三島由紀夫作『班女(はんじょ)』が上演されたんです

「新春みるめショウ」より渡辺亮史演出『班女』
三島由紀夫と言えば、1970年に市ヶ谷の自衛隊総監部で自害しましたよね。自ら死を選んだ人です。三島は小説家としてよく知られていると思いますが、演劇に大きい関心を持ち、優れた戯曲も遺しています。彼は日本の古典芸能に造詣が深く、『近代能楽集』という戯曲を書きました。この戯曲集は現在でもよく上演されています。これは能楽の謡曲をもとに、近代日本の問題を盛り込んでアレンジを加え、短編戯曲に仕上げたものです。全部で8つの戯曲がおさめられています。その1つが『班女』です。
能楽の『班女』では、吉田少将が、とある宿で遊女・花子に出会うのですが、その後、その場を離れなければならなくなり、花子は捨てられた格好になっています。「班女」とは中国の故事からとられた言葉で、見捨てられた女性の象徴です。「班女」と呼ばれるようになった花子は宿を追われ、狂乱状態で京に向います。京に帰った吉田少将がふたたび花子と出会うことになるという話です。能楽の『班女』については以下のサイトが参考になります。
◆the能.com 演目事典「班女」の項目(→リンク先を見る)
三島の『班女』では、吉田少将は吉雄という名前の男性に置き換えられています。気の触れた花子が駅のホームで吉雄を待っているという設定です。三島はここに実子という画家を登場させ、吉雄に見つけられないように花子を自宅でかくまっているという状況をつくりました。実子は花子を愛していて、吉雄のような不実な男性に奪われたくないわけです。
こういう説明をすると、昼ドラのような愛憎劇が想像されるでしょう。
「新春みるめショウ」で上演された『班女』を演出したのは、アトリエみるめを運営している演出家の渡辺亮史氏でした。上演方法がおもしろいもので、3人の女優が3人の登場人物をかわりばんこに演じるんです。つまり『班女』が3回上演されたんですね。観客はリプレイされる『班女』をじっと見ることになります。同じ台詞を別の女優が演じることになるわけですが、役者によってイメージが違うのでしょう、観客が受け取る意味も少しずつ違って感じられるんです。
繰り返しの手法は、例えば、ミニマルミュージックでよく使用されます。スティーブ・ライヒというミニマルミュージックの大家がいますが、彼は音形の反復と、その反復によって少しずつズレていく差異を、ミニマルミュージックの中心に置きました。今回の『班女』はそうした試みと似ているかもしれません。配役を変えて同じ戯曲を3回繰り返すことで、その反復による差異を浮き立たせる。戯曲の持つ意味が、繰り返されるごとに、少しズラされた色彩を放ちます。青だったものが緑になり、緑と思ったものが黄になるような、そういう変化を楽しめるんです。目の前に広がる光景にこうしたズレを読み込んでいくことは、日常生活を楽しむコツですよね。公園の木々が季節ごとに変化する、その実感が生活を彩ることがあるでしょう。
三島の『班女』はまた、彼の思想が強く反映されてもいます。能楽で少将と花子が再会するのとは違い、三島の戯曲では、再会しても花子が吉雄を本人だと信じないというオチがついています。花子は吉雄以外の男性はみんな骸骨に見えると言っていたのに、いざ吉雄に会ってもやっぱり骸骨に見えてしまう。能楽に登場する「少将」は官職の一つで天皇につかえる身分です。ご存知のように三島は強烈な天皇主義をとっていました。右翼思想の根幹に天皇という(国民の象徴ではない)神的存在を置くのです。最期の市ヶ谷の決起でも、自衛隊を天皇のもとに戻すことを主眼にしていました。こうした背景を考えると、吉雄が花子に認められないというオチが何を表現しているか想像できるでしょう。吉雄がどういった男性か詳述されてはいませんが、上演の際に解釈を加えることができます。しかも花子をかくまうのは芸術家である絵描きの実子ですから、三島がここに自らの位置を見出していたとも考えられます。こういった背景を抜きにすると、『班女』は本当にただの昼ドラです。「近代」能楽集であるゆえんが、このあたりにあるのです。
さて、今回の「新春みるめショウ」では、演劇の上演後に劇場内を交流スペースとして開放するという試みをしていました。

上演後、劇場スタッフによるDJが始まった
演劇は目の前で役者が演じるという直接的な表現ですから、鑑賞者が受け取るものも情動的で大きいです。観劇後は感想を話したい気分にもなります。そんな気分にぴったりの空間だと思います。
「新春みるめショウ」はこの後も3月まで続きます。宮沢賢治や太宰治など、一般的に知られた名作の上演が続くようです。ぜひ足を運んでみてください。
◆アトリエみるめのサイト → http://www.mirume.org/
芸術批評誌DARA DA MONDE2号の編集作業も大詰めに入ってきました。近々発行のご案内ができると思います。では、今回はこのへんで。ごきげんよう。
麻生太郎副総理・財務相の発言が話題になっていますね。終末医療について「さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」などと言ったそうです。
◆朝日新聞デジタル
麻生太郎氏「さっさと死ねるように」終末医療巡る発言撤回(→リンク先を見る)
政治家の発言はどこまで意図的かわからないと思います。こういった発言をしておいて、国民の反応を見るという意図もあるのかも。失言を装ったリトマス試験紙みたいなものですね。尊厳死や自殺幇助の合法化を進める動きがあるのかもしれません。ぼくは人には死を選ぶ権利があると思っています。ただこれらを合法化したときに、悪用する人たちが出てくるのも容易に想像できます。例えば、臓器売買。お金儲けのために生命を扱う人がいるだろうと思うんです。もちろん生命を心底欲している人もいる。こういう事態をどう考えるか。麻生氏の発言に、仮に思想があったとしても、その思想が、人体までも商品と化す経済最優先の考え方を補強している可能性があるでしょう。そのことに気づいているなら、たちが悪い。
今回紹介するのは、静岡市駿河区寿町にある小劇場、アトリエみるめです。2013年1月19日と20日に「新春みるめショウ」というイベントが行われました。そこで三島由紀夫作『班女(はんじょ)』が上演されたんです
「新春みるめショウ」より渡辺亮史演出『班女』
三島由紀夫と言えば、1970年に市ヶ谷の自衛隊総監部で自害しましたよね。自ら死を選んだ人です。三島は小説家としてよく知られていると思いますが、演劇に大きい関心を持ち、優れた戯曲も遺しています。彼は日本の古典芸能に造詣が深く、『近代能楽集』という戯曲を書きました。この戯曲集は現在でもよく上演されています。これは能楽の謡曲をもとに、近代日本の問題を盛り込んでアレンジを加え、短編戯曲に仕上げたものです。全部で8つの戯曲がおさめられています。その1つが『班女』です。
能楽の『班女』では、吉田少将が、とある宿で遊女・花子に出会うのですが、その後、その場を離れなければならなくなり、花子は捨てられた格好になっています。「班女」とは中国の故事からとられた言葉で、見捨てられた女性の象徴です。「班女」と呼ばれるようになった花子は宿を追われ、狂乱状態で京に向います。京に帰った吉田少将がふたたび花子と出会うことになるという話です。能楽の『班女』については以下のサイトが参考になります。
◆the能.com 演目事典「班女」の項目(→リンク先を見る)
三島の『班女』では、吉田少将は吉雄という名前の男性に置き換えられています。気の触れた花子が駅のホームで吉雄を待っているという設定です。三島はここに実子という画家を登場させ、吉雄に見つけられないように花子を自宅でかくまっているという状況をつくりました。実子は花子を愛していて、吉雄のような不実な男性に奪われたくないわけです。
こういう説明をすると、昼ドラのような愛憎劇が想像されるでしょう。
「新春みるめショウ」で上演された『班女』を演出したのは、アトリエみるめを運営している演出家の渡辺亮史氏でした。上演方法がおもしろいもので、3人の女優が3人の登場人物をかわりばんこに演じるんです。つまり『班女』が3回上演されたんですね。観客はリプレイされる『班女』をじっと見ることになります。同じ台詞を別の女優が演じることになるわけですが、役者によってイメージが違うのでしょう、観客が受け取る意味も少しずつ違って感じられるんです。
繰り返しの手法は、例えば、ミニマルミュージックでよく使用されます。スティーブ・ライヒというミニマルミュージックの大家がいますが、彼は音形の反復と、その反復によって少しずつズレていく差異を、ミニマルミュージックの中心に置きました。今回の『班女』はそうした試みと似ているかもしれません。配役を変えて同じ戯曲を3回繰り返すことで、その反復による差異を浮き立たせる。戯曲の持つ意味が、繰り返されるごとに、少しズラされた色彩を放ちます。青だったものが緑になり、緑と思ったものが黄になるような、そういう変化を楽しめるんです。目の前に広がる光景にこうしたズレを読み込んでいくことは、日常生活を楽しむコツですよね。公園の木々が季節ごとに変化する、その実感が生活を彩ることがあるでしょう。
三島の『班女』はまた、彼の思想が強く反映されてもいます。能楽で少将と花子が再会するのとは違い、三島の戯曲では、再会しても花子が吉雄を本人だと信じないというオチがついています。花子は吉雄以外の男性はみんな骸骨に見えると言っていたのに、いざ吉雄に会ってもやっぱり骸骨に見えてしまう。能楽に登場する「少将」は官職の一つで天皇につかえる身分です。ご存知のように三島は強烈な天皇主義をとっていました。右翼思想の根幹に天皇という(国民の象徴ではない)神的存在を置くのです。最期の市ヶ谷の決起でも、自衛隊を天皇のもとに戻すことを主眼にしていました。こうした背景を考えると、吉雄が花子に認められないというオチが何を表現しているか想像できるでしょう。吉雄がどういった男性か詳述されてはいませんが、上演の際に解釈を加えることができます。しかも花子をかくまうのは芸術家である絵描きの実子ですから、三島がここに自らの位置を見出していたとも考えられます。こういった背景を抜きにすると、『班女』は本当にただの昼ドラです。「近代」能楽集であるゆえんが、このあたりにあるのです。
さて、今回の「新春みるめショウ」では、演劇の上演後に劇場内を交流スペースとして開放するという試みをしていました。
上演後、劇場スタッフによるDJが始まった
演劇は目の前で役者が演じるという直接的な表現ですから、鑑賞者が受け取るものも情動的で大きいです。観劇後は感想を話したい気分にもなります。そんな気分にぴったりの空間だと思います。
「新春みるめショウ」はこの後も3月まで続きます。宮沢賢治や太宰治など、一般的に知られた名作の上演が続くようです。ぜひ足を運んでみてください。
◆アトリエみるめのサイト → http://www.mirume.org/
芸術批評誌DARA DA MONDE2号の編集作業も大詰めに入ってきました。近々発行のご案内ができると思います。では、今回はこのへんで。ごきげんよう。
Posted by 日刊いーしず at 12:00